青空が見えるまで


「こんな所に本当に喫茶店なんてあるのだろうか」

帯広のホテルを出てから既に小一時間は経つだろうか。
立派な「白樺の木立」が連なる,周囲には何もない一本径が、ただただ前方に広がっていた。
「ここら辺の筈なんだが」
と,右手前方に小さな、本当に小さな看板を見つけた。
「カフェ・エッセンス」
右に折れ暫らく走ると広大な農場が。
「農場のすぐ隣だってホテルのスタッフが言ってたな」
すると木造りのとてもシンプルな二階建ての家が,唐突に私の視界に姿を現した。
車を止める。
「ここか・・・」
「春夏冬中」と書かれた札が,あるかなきかの風に揺れていた・・・

前日の5月某日。
私は初めて「十勝帯広空港」に降り立った。
実は,スケジュ−リングが上手くいき,予定よりも一日早く、一日多く滞在出来るようになったのだ。
空港を出ると,思ったよりも暑い空気が私を出迎えた。
市街地行きのバスに乗る。
乗客は少なく,私を入れて3人程だった。
時計の針は10時を指そうとしている。
ホテルまで30分強の道程だと聞いていた。
飛行機からも「十勝」の雄大な,真っ平らな様には驚かされていたのだが、その他のぐるりを埋め尽くす「北海道・十勝」ならではの風景には目が離せなくなっていた。
途中から気になる光景が目に付きだした。
黄色い花がそこここに群生しているのだ。
何かと思い目を凝らしていると,何と「タンポポ」の花だった。
こんなに沢山のタンポポの花を目にするのは初めてで,それが一箇所では無いことには驚きを隠せない。
ただ,街へ入っていくと、そのような光景には出くわさなくなったのだが。
気が付くと見事な桜並木の通りへとバスが入ってゆく。
やがてゆるりとバスが停車したのは目指すHホテルの前だった。
バス亭前の桜も見事で,私は思わず携帯のシャッタ−を切っていた。
HPの写真で見たものと同じ威容を誇るホテルが私の目の前に鎮座していた。
入口に近づくと,中からスタッフが出てきて「お泊りですか?」と荷物を預かってくれた。
チェックインカウンタ−へ向かう。
「榊さん!」
見ると,夏海の友人であるコミュニティFMのディレクタ−が、小走りでやってくるところだった・・・

ゆっくりと扉を開く。
すると,カランコロンという涼やかなカウベルの音が、気持ち良く響き渡る。
その瞬間,私は目を奪われていた。
正面のカウンタ−の後ろは、大きな一枚ガラスになっていて、その向こうには、果てしない十勝の大自然が広がっていたからだ。
声を無くし呆然としている私に声が掛けられる。
「いらっしゃいませ」
「・・・凄い景色ですね・・・まるで一服の絵のようだ・・・」
「ありがとうございます」
私はその「絵」に導かれるようにカウンタ−の止まり木に収まっていた。
「いやぁこれは本当に素晴らしいですね」
マスタ−は穏やかな微笑みを絶やさず,珈琲カップを丁寧に洗っていた。
「あっこれは失礼・・・ブレンドをいただけますか」
「うちは淹れるのに少々時間が掛かるのですが」
「ハイ,その事もHホテルのスタッフに伺っていますので」
実はホテルのスタッフが教えてくれていたのだ。
客の注文を聞いてから豆を挽き,一杯一杯、ネルドリップで丁寧に淹れるので時間が掛かるのだという事を。
プラス,そのお客に合せた珈琲カップも隣の倉庫から選んでくるので、尚更時間が掛かるのだと。
「Hホテルにお泊りなんですか」
「えぇ,あそこの日高ウィング最上階にあるス−ペリアツインに部屋をとっていただいたんですが、あの部屋から見る日高山脈は圧巻ですね」
「では,お仕事で帯広へ?」
そんな話をしながらもマスタ−は手際良く準備を続けている。
「ハイ」と返事をしながら,ふと「表の看板ですが、春夏冬中、秋がない・・・商い中とは、いい言葉ですね」
「地元の方に教えていただいたんですよ」
ポツポツと話しをしながら,十勝の雄大な自然を目の当たりにしながら、珈琲の香りに包まれている時間の、何と心地よい事か。
私の前を「贅沢な時間」がゆっくりゆっくりと流れてゆくようだ。
「お待たせしました」
供された珈琲の芳醇な香りと共に,深い藍色を湛えたカップの佇まいに、私はとても気持ちが豊かになっていくのを感じていた。
一口目はストレ−トで。
「・・・うん・・・美味い・・・」
私の反応に軽く頷いたマスタ−は,又カップを丁寧に洗い始めた・・・

「へぇ,そうなんですね」
講演会と特番の軽い打ち合わせを済ませると,彼女が今の季節の「十勝」の事を話してくれたのだ。
「十勝」は一斉に花が咲き始めるのだと。
梅と桜とツツジとタンポポの花と・・・
とにかく様々な花が同じ時期に饗宴を果たすそうなのだ。
「あっ,それからこれを」
レンタカ−のキ−だった。
「本日はどうされますか?」
「今日は周りを少し散策させてもらってから部屋でお薦めの日高の山並みを堪能させていただこうかなと思っています」
「温泉も最高ですから,ゆっくりお楽しみ下さい」
「ありがとうございます」
このカフェからのぞめる「見猿・聞か猿・言わ猿」の梟版(弱冠順番が違うのだが)「見梟・言わ梟・聞か梟」達には思わず笑みが零れてしまった。
既に部屋の用意は整っているようなので,早めのチェックインを済ませ、まずは昼食前に中庭を散策してみようかと考えていた。
そしてそのまま中庭に面しているホテルのレストロンでランチを摂ろうと。
「では又19時頃,スタッフミ−ティングのお迎えにあがりますので」
「わかりました,よろしくお願いいたします」
「いえいえ,こちらこそ本当にありがとうございます」
そう言って彼女は,ホテルのスタッフに何かを告げて帰っていった。
後から分かった事なのだが,彼女はスタッフに「カフェ・エッセンス」の情報を私に教えてあげて欲しいと頼んでくれたようなのだ。
荷物は自分で持っていきますのでとカウンタ−のスタッフに言い最上階へ。
どんな景観が待ち構えているのかワクワクしながら扉を開き中へ入る。
閉じられていたカ−テンを開け放つ。
「・・・」
大きな一枚窓越しに「日高山脈」が見事なまでに、私の視界一杯に広がっていた。
私はただただその光景を,じっと見つめ続けていた・・・

「・・・わたしも榊さんの講演を聞きに行こうかな」
「それは是非いらして下さい」
先程,自分の仕事が何で、どのような仕事で帯広に来たのかも話していたのだ。
きっかけは「夏海」だった。
ちょうど東京に帰省していた友達が帯広のコミュニティFMでディレクタ−をやっていて,その彼女が私の事を夏海から聞いて、是非講演をお願い出来ないかという話になったらしいのだ。
出来れば定期的に,その道のプロを呼んで講演を打つというイベントを実現したいと思っているのだと。
私は自分のスケジュ−ルと照らし合わせて,すぐにOKの返事を出した。
大きな要因は勿論,夏海の頼みだからなのだが、もう一つ要因を挙げるとするならば「十勝の大自然」に惹かれるところがあったという事だろうか。
そしてそこにある「エッセンス」というカフェに行ってみたいと思っていたからかもしれない。
何年か前にネットで偶然見つけた時には「ここには行かなきゃな」と軽い興奮を憶えたものだった。
今回の話を聞いた時「これは必然だ」と思った事は言うまでもない。
講演を承諾すると,よほど嬉しかったのか、彼女は私の特番までをも組んでくれたのだ。
どうやら夏海が私の話し好きを漏らしたらしかった。
特に自分の得意分野に関してはという注釈を付けて。
かくして私の訪帯が決まり,日高山脈の素晴らしさを知っていただきたいからと、今回のホテルと部屋をリザ−ブしてくれたのだ。
そして行ってみたい場所があってと相談した私の為にレンタカ−までも用意してくれていたのだ、どこへ行くにも時間が掛りますからと言って。
ただ一つ残念だったのは。
夏海が直前に一緒に行けなくなってしまった事だ。
もしかしたら私よりも楽しみにしていたのに,店長の急病により、諦めざるを得なかったのだ。
その連絡を受けたのはちょうど私の部屋に居る時だった。
「店長ったら,俺の屍を越えてゆけとか何とか分からない事言って全くもう!」
携帯を閉じた夏海は,暫らくプンプンしていたが、気が付くと気持ち良い寝息をたてていた。
無理もない。
帯広に行く為に,ここひと月程頑張って時間を創っていたのだ。
「もう少しこのままでいよう」
夏海は今も赤レンガの雑貨屋で働き,私はエッセイを中心に物書きを続けている。
夏海の寝息をすぐ側で感じながら私は思っていた。
「そろそろ夏海との事もキチンとしないとなぁ」と。
「時」は残酷ではあるが優しくもある。
痛みや悲しみが完全になくなる事はないが,確実に「遠く」はなっていくのだ。
そんな事が本当にあった事なのかどうなのか,記憶は確実に「薄れて」いくのだ。
自分がまどろみに包まれていくのを感じながら,私はまだ見ぬ「十勝」を、夏海と歩く様を脳裏に思い描いていた・・・

「千年の森ですか」
「えぇ,ここから近いんですよ」
そんな会話をしながら,私はもう少し足を伸ばして「千年の森」を訪ねてから帰途につこうと考えていた。
どうやらそこには「十割蕎麦」が美味い店があり,そこの蕎麦は是非食べてみて下さいとマスタ−に強く勧められたのだ。
ボ〜ンボ〜ンと年代物の振り子時計が時を刻む。
祖父の家には「鳩時計」があった事を憶い出していた。
その事をマスタ−に言うと。
「鳩時計も欲しかったんですが,なかったんですよねぇ」との答えが帰ってきた。
夜に局が組んでくれている「歓迎会」にはまだ充分に間がある。
逆算して時間を弾き出した私は,とても去り難かったのだが、そろそろ出発しなければと思っていた。
「また来ます」とマスタ−に言い,扉を押す。
カウベルの涼やかな音色が「またいらっしゃい」と言ってくれているようだ。
陽は中天をとっくに過ぎ,風が少しヒンヤリと感じられる。
今年は桜が大分遅れたらしく,そこここで、東京や湘南よりも桃色が濃い桜達が歓迎してくれた。
ここら辺ではそれでもまだまだのようだ。
「こんにちは!」
見ると,隣の農場の子供だろうか、私に挨拶をしてくれたようだ。
「こんにちは!」
と挨拶を返しながら車に乗り込む。
「10分位かぁ」
先程マスタ−に教えられた道筋をもう1度反芻する。
「十割蕎麦を出す店は,藁葺き屋根の古民家を移築したものだって言ってたな」
そう呟きながらステアリングを切る。
Hホテルの中庭には何匹もの蝦夷リスが来るのだとも教えてくれた。
運がよければ「クマゲラ」にも会えるかもしれないとか。
街中で「キタキツネ」にも会えますよとも。
心地よい興奮の中,私は車を走らせていた。
この道はどこまで続くのか。
どこへ繋がっているのか。
まるで果てのないかの如くの一本径を,私を乗せた車は軽快に走ってゆく。

「また一つ帰る場所が出来たな」

こうして人は,自分という人間を刻み込める場所を、一つでも多く求め続けていくのかもしれない。
動物が(勿論人も動物だが),マ−キングをするかの如く。
心を平穏に保つ為に。
ここは己の場所だと己自身に確認する為に。
これからも私はそうやって生きていくのだろう。

「次は絶対,夏海を連れてきてやらないとな」
リクエストされた,六花亭の「マルセイ・バタ−サンド」と、ロイズの「クルマロチョコレート(ミルク)」を憶い出しながら、少しだけアクセルを踏む。
その僅かな分だけ「未来」に早く近づけたような気がした。

「あれだな」
アクセルを緩める。

私の目の前に,まだ見ぬ広大な大地が広がっていた。
「深呼吸」を一つした私の前を,数羽の鳥が鳴き交わしながら飛んでいく。

歩き出した私に,ここの空気は、いつまでもいつまでも優しかった。

いつまでもいつまでも,愛おしかった・・・





2013/6/15(土)17:02 自宅にて
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2013/6/27(木)15:42 茅ケ崎「スタバ」にて
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2013/6/27(木)18:31 自宅にて
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2013/6/28(金)14:01 同上
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2013/6/28(金)22:00 同上

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