〜「海の匂いがした」〜 |
「ジリリリリリリリ−ッ!!!」 警報と共に流れ込んできた水の中から必死に顔をあげた私は,声を限りに叫んでいた。 「た,助けて〜っ!」と。 「・・・・・」 暫くの空白の後(のち) 「夢・・・か・・・」 ぼやけていた視界がじょじよに焦点を結び始める。 「だけど,あの冷たさはリアルだったなぁ」 胸のあたりが何か重いなぁと思い首を少しあげてみる。 「あっ,瑠璃ちゃん、そこで寝てたんだぁ、オ・ハ・ヨ」 顔にチュ−をするといつものように「プシュ−ッ」と鼻から息を吐きながら首を引っ込めた。 「愛(う)い奴よのう」 微笑みを浮かべた私の顔は,しかしその一秒後には凍りついていた。 「まさか,瑠璃ちゃん・・・」 そう,彼女は私の胸のあたりに盛大に「ジョ−ッ」をしていたのだ。 お気に入りの寝巻きに描かれたキティちゃんは,まるで半べそをかいているようだ。 「もう,これプレゼントしてもらったばっかりなのにぃ」 そんな事にはお構いなく,彼女は方向転換を始めると、足の方から下りるべく進み始める。 キティちゃんと同じように半べそをかきながら「いけない,急いで洗濯しなきゃ!」 ノロノロ進む彼女を下へ降ろし,胸のあたりがべっとりした寝巻きを脱ぎながら私は思っていた。 「きっと目覚まし時計のベルにビックリしてしちゃったのね」 迂闊だった。 いつもは音量を絞ってセットするのに,昨夜はベロベロに酔っ払っていたせいか、最大にセットしてしまったようだ。 それと彼女がいつものポジションから登ってきた事に全然気付かなかったとは。 「あ〜あ,普段ならちゃんとペットシ−ツをひいたのになぁ」 そんな事をブツブツいいながら,寝巻きを洗濯機に放り込み、自分もシャワ−を浴びるべくバスル−ムに飛び込む。 湯音を少し温(ぬる)めにセットしながら「あ〜あ,また今日も遅刻だよぉ〜」と呟いていた。 何故だろう,私は、あの人とのデ−トの時間にキチンと間に合った事が一度もないのだ。 「あたしがシャワ−終わったら,瑠璃ちゃんもお風呂にいれてあげないとな」 今更ながら「二日酔いでちょっと気持ち悪いかも」と思いながら「まぁいっかぁ!」とシャンプ−し始めた私は、あの人の 横顔を思い浮かべていた。 「あのちょっと憂いを含んだようなところが堪らないんだよなぁ、ムフフフフフ・・・・・」と妄想の翼を広げながら。 バスル−ムから漏れ聞こえてくる不気味な笑い声に,瑠璃ちゃんが「またか」といった視線を投げかけて いるのを、能天気な夏海は知る由もなく、また目覚まし時計を間違えて1時間遅くセットしていた事実に気付く筈も なかった・・・ 目頭を揉みながら顔をあげると,私は側を通るウエイトレスにブレンドを注文した。 時刻は既に14時を廻っていた。 「いつもより遅いな」 一区切りついた文章をファイルし,ノ−トPCの電源を落とす。 自分が思っているより疲労が溜まっているようだ。 一つ大きく伸びをしながら,首を回し、外に目を転じる。 空には一筋の飛行機雲が儚げに浮かび,陽射しが気持ち良さげに降り注いでいる。 鼻腔に珈琲のいい香りが漂ってくるのを心地良く感じながら,私は初めて彼女の部屋に招かれた時の事を憶い出していた。 「いらっしゃい!」 と玄関を上がった私の足元に「そいつ」はいた。 スリッパを履いた足に鼻を付けてくる。 「あっ,駄目よ瑠璃ちゃん、あたしの大事なお客さんなんだから向こうでおとなしくしててちょ〜だいね」 ひょいと,起用に片手で持つと、夏海は少し離れたところにあるブル−シ−トの上に「そいつ」を置いた。 「ごめんなさい,ビックリした?」 「う〜ん,ちょっとね」 正直私はその時相当驚いており,一瞬固まってしまっていたのだが、それを感づかれぬよう平静を装っていたのだ。 「そいつ」を見ると,向こうもこちらを向いている。 「でもまさか亀を飼ってるとは思わなかったな」 上着を夏海に渡し,品の良いブル−のソファ−に座りながら、視線は「そいつ」を追っていた。 「あ〜良かったぁ,冬夜さんが凄く嫌がったらどうしようかと思ってたんだぁ」 「俺はミドリガメとか海ガメ位しか知らないんだけど,このカメは何ていう種類なの?」 「種類はホシガメで,名前は瑠璃ちゃんよ」 キッチンからトレイに載せた紅茶を運びながら彼女が言う。 「そうか,メスなんだ」 こちらを横目で見ながら瑠璃ちゃんは大欠伸をしている。 「名前の由来は?」 「由来って,そんな大袈裟なものじゃないんだけど・・・」 と言って夏海は「瑠璃」ちゃんとの出会いからを語り始めた。 地元のペットショップの前を通りかかった時,フト視線を感じて見ると水槽の中から「瑠璃」ちゃんが夏海を じ〜っと見詰めていたそうなのだ。 以前,某消費者金融のCMで、これと同じようなシチュエ−ションがあったなぁと朧に思いながらも、夏海は水槽に 近づいていった。 「不思議な瞳の色をしてるな」 暫く目を合わせていると,突然いてもたってもいられなくなり、ショップに駆け込むと「あの亀下さい!」と言っていたと言う。 足りない分は母親に電話して必死で頼み込み,工面してもらうOKを取り、飼い方などをスタッフに詳しく教えて もらった挙句、中古の水槽まで殆どタダ同然でゲットしたそうだ。 「瑠璃」という名前は,彼女の瞳を見た瞬間,脳裏に浮かんだという事だ。 何か吸い込まれるようでいて,そして万華鏡のような光彩を放っている瞳。 スタッフも,こんな瞳の亀は見た事がないと言っていたようだ。 それから「夏海」と「瑠璃」ちゃんの奇妙?な二人暮しが始まった。 ブル−シ−ツは,いわば瑠璃ちゃんのトイレのようなもので、いつどこで粗相をするか分らない彼女にとっては 必需品となっている。 夏海も今では,瑠璃ちゃんがもよおしそうになっている時が分るようになったそうだ。 そんな事を思い返しながら,春の陽射しの中、まどろみに優しく包まれる自分を感じていた・・・ 「それで瑠璃ちゃんもお風呂にいれてあげたんだ」 機関銃のように捲し立てる夏海の言葉がようやく尽きた時,私にもやっと声を発する権利が与えられたようだ。 「そう!いれなければこんなに遅れなかったんだから」 既にアイスミルクティ−を飲み干していた彼女は,側にいたウエイトレスに「もう一杯お願いしま〜す!」と グラスを翳していた。 夏海との待ち合わせ場所として私がチョイスしたこのカフェは,美術館の2Fにあり、広く、まるで空を切り取った かのような窓からは、併設された庭園を一望出来、そこからゆるやかにカ−ブを描きながら美術館入り口へと登ってくる エントランスを正面に見る事が出来る。 いつも夏海は,ちぎれんばかりに手を振りながら,そこを駆け上がってくるのだ。 「あっごめんなさい,ちょっと4番行ってきます」(4番とは夏海のショップでトイレを指す隠語として使われているようだ) 「あぁ」 夏海の席を立つ動作を目で追いながら「やっぱりこの子の一連の動作は流れるようだな」と心で呟いていた。 その事について「おや?」と思ったのは,いつの頃だったのだろう。 そして何時の間にか私は,ここのスロ−プを駆けてくる彼女の姿を見る事がとても好きになっていたようだ。 彼女の動きは躍動感に溢れていた。 プラス,変な言い方になるかもしれないが、そこには一点の曇りもないのだ。 だから私は,彼女の姿を認めた瞬間に、全てを許してしまえるような心持になるのかもしれない。 季節は,春から夏へと緩やかに衣替えを始めている。 トンビとカラスがなにやらじゃれあいながら窓の外を横切っていった。 「また夏が来るか・・・」 あの暑い陽射しを思い出しながら,私は、宮古島(沖縄)の風景を憶い出だしていた。 水中メガネとフィン(足ヒレ)を装着し、シュノ−ケリングを始めた途端、色とりどりのテ−ブルサンゴの群落が迎えてくれた。 地元一押しのビ−チで,他の場所より観光客が少ないとはいえ、こんな間際までサンゴが元気なビ−チが存在 しているという事実に、驚きを隠せなかったものだ。 蝉時雨も凄かった。 いや,あれは、絶え間無い、蝉スコ−ルだったか。 本当のスコ−ルが来た事もあった。 突然空が暗くなったと思ったら,酷い土砂降りがやってきた。 走って引きあげる人を尻目に,私はパラソルの下でじっとしていた。 「スコ−ルなら長くて10分程のものか」 雨の音がしなくなったので,閉じていた目を静かに開けると、水滴を落とすパラソル越しに、見事な入道雲が見え、 空は晴れ渡っていた。 波打際まで行き振り返ると,遠く、ジェットストリ−ムが霞んでいた。 「あの夏に・・・」 私は,独りでしか行かない、自分にとって特別な場所に、夏海を伴ってもいいかと、ふと思っていたのだ。 「沖縄には行った事がないと言っていたしな」 足音に見ると,夏海が満面に笑みを浮かべて戻ってくるところだった。 「まるで向日葵のようだ」 そう思いながら,私は微笑み返していた・・・ 「わぁ!凄〜い!!」 眼下に海が見えた途端,夏海が悲鳴のような声を挙げた。 今朝空港で会った時は酷い顔をしていたのだ。 興奮のあまり寝られなかったらしい。 しかし搭乗が始まるといつもの元気を取り戻し「あたし飛行機に乗るの初めてなんだぁ!」と,ここ一週間程 毎日のように聞かされ続けていた言葉を繰り返していたのだが、機内食に出た簡単な朝食を摂った後,静かになったな と見ると、窓に顔を貼り付けるような格好で寝ていたのだ。 スチュワ−デスに頼んだ毛布をそっと掛けながら,雲海に目を遣る。 真っ白な絨毯を敷き詰めたようなその様は,今見ても新鮮な驚きと発見を喚起させてくれる。 若い頃,初めての海外体験であるグアムに飛び立とうとしていた時、生憎の雨模様と風邪の為、気分は全く すぐれなかったのだが、雲を突き抜けた先に広がる蒼穹を目にした途端,風邪は嫌な気分と共に吹き飛んでしまっていたのだ。 私は,その神秘とも言える白と蒼の世界から目を離せなかった。 あれ以来,私はいつも白い絨毯に抱かれている思いに捉われるのだ。 空にいる間は。 シ−トベルト着用のサインが点灯する。 雲間から宮古の海が見え隠れしていた。 「懐かしいな」 肩を優しく揺すり夏海を起こすと,彼女は開口一番、先程のような声を挙げたのだ。 「あの場所は変わらずにあるのだろうか」 意味不明の奇声を発する夏海の向こうに滑走路が見え隠れする。 「二人でも・・・」 気ままな一人旅に慣れてきた自分が起こしたこの発作的な行動がどのように転ぶのか。 ただ,漠然と感じてはいたのだ。 「夏海と沖縄はあっているだろうな」と。 そして,無性に連れて行きたくなったのだ。 機がスム−ズにタッチダウンする。 「ホテルには10時30頃にはチェックイン出来るだろう」 そんな事を考えながら,私は夏海を促し、席を立った・・・ タクシ−から見える風景は,旅行誌やウェブ上や、冬夜さんに見せてもらった写真と同じだった。 ハイビスカスやブ−ゲンビリアが咲き乱れ,その向こうに赤瓦屋根の家が見え隠れして。 シ−サ−は,家の数だけ種類があるようで。 「へぇ,色んな表情をしてるんだなぁ・・・あっ」 気が付くと,タクシ−は広大なサトウキビ畑の中を走っていた。 あたしは思わず窓を開けた。 「ほんとうだ。ザワワ・・・ザワワって聞こえる」 と同時に,物凄い蝉の声。 汗が流れ落ちるのも構わず,あたしは緑の波から目を離せないでいた。 初めて体感する沖縄の夏。 飛行機を降りた瞬間感じた,ムッとした熱気。 南国の匂い。 強烈な陽射し。 何故か豊かだと感じられた時の流れ。 緑の向こうに海が見えた。 こんな色をした海は初めてだった。 「夏海,もうすぐ着くよ」 「え〜っ!もう着いちゃうのぉ!」 「チェックインを済ませたら早めのランチを摂って海に出ようか」 「うんっ!!」 と,車が止まった。 「えっ」 と思っていると,運転手さんが窓を開け、唐突に道端の小学生と話し始めていた。 小学生はただ頷いているだけのようなのだが,何を話しているのかチンプンカンプンだった。 冬夜さんに聞いても「さぁ,何て言ってるんだろうね」と柔らかく微笑んでいるだけだ。 あたしはだんだん焦れてきていたのだが,冬夜さんは、窓の外のサトウキビ畑を見ているだけで何か言う様子はない。 「このままだとタクシ−の中で蒸し焼きになってしまいそうだ」 陽射しは激しさを増し,蝉の大合唱は全てを圧するように降り注ぎ、小学生は神妙な顔をして立っている。 そのコントラストが何だか可笑しくて,ここに来ても「時間」に縛り付けられている自分が馬鹿らしく思えてきた。 冬夜さんに言われていたではないか。 沖縄には「オキナワンタイム」が流れていると。 「静かだ」 こんな風に時間を感じられるなんて,東京ではなかった事だ。 「・・・」 豊かってこうゆう事なのかもしれない。 そんな風に感じながら,あたしはいつのまにか目を閉じていたようだ。 ザワワ・・・ザワワ・・・ 気持ちが,だんだん、穏やかになっていく。 まだ来たばかりだけど,もしかしたら自分は、ここの時間に歓迎されているのかもしれない。 そんな事を思っていると,瞼の裏に、どこかで会った憶えがある少女が現れた。 向日葵に囲まれて満面の笑みを浮かべている。 「あの夏と同じだ」 そう,あの夏は、毎日が飛びっきりの笑顔だった。 毎日が・・・とてもキラキラしていた・・・ 何か海に抱かれているみたいで,とても気持ちが良かった。 誰かがあたしを呼んでいるみたい・・・だ・・・ けど・・・もう暫く・このままで・・・い・た・・い・・・な・・・ 腕を叩かれた。 ダイバ−ズウォッチを見る。 時間だった。 あたしはゆっくりと浜へ引き返し始めた。 浜に立つとシュノ−ケルと水中メガネを外す。 波打ち際にいるあたしの足元を,小さな魚達が過ぎていく。 深呼吸をしながら,もう何度目になるだろう、宮古の空を見上げる。 相変わらずのドピ−カンだった。 目を閉じていると,様々な夏の音が身体に流れ込んでくるようだ。 「夏海!」 振り返ると,冬夜さんがバスタオルで頭を拭きながらあたしを促すようにしていた。 「早くパラソルに入りなさい」 「ハ〜イッ!」 今は8月。 初めて体感する沖縄の陽射しは,想像以上に暴力的で、肌が焦げるかと思った程だった。 冬夜さんからは,何度も何度も、沖縄についての注意を受けていたのだ。 最初の何日かは,絶対長袖のTシャツを着て海に入る事。 シュノ−ケリングの時間は10分で,同じ位の時間は必ず日陰で休憩を取る事。 水分は,マメに補給する事。 etc・・・etc・・・ シュノ−ケルもフィンもマスク(水中メガネ)も,宮古行きが決定してすぐに、冬夜さんが選んでくれた。 シュノ−ケリングも,都内にあるダイビングショップに併設してあるプ−ルで、教えてくれた。 特に,珊瑚には絶対触れてはいけないと強く言われていたのだ。 何も分らない観光客は,平気で珊瑚の上に乗ってしまうらしい。 「この20年足らずで随分変わってしまったよ」 いつも連れていってもらうバ−のカウンタ−で冬夜さんが呟いた一言が甦ってくる。 あたしは置かれたばかりの,シンガポ−ルスリング・ラッフルズスタイルに口を付けたばかりで、思わずドキッとしたものだ。 さりげない言い方だったのに,うまく言えないけど、あたしの真ん中にダイレクトに響いてきたからだ。 「シンガポ−ルスリング・ラッフルズスタイル」は,アルコ−ルが得意でないあたしの為に,冬夜さんが選んでくれたカクテルだ。 「今これをやるバ−は中々ないと思いますよ」とマスタ−。 フル−ツをそのまま使い,普通のシェイカ−ではなく、三角錐のお化けのようなものを合わせて振るマスタ−のその姿があたしは好きで、いつも目をパッチリと 見開いてマジマジと見てしまうのだ。 そんなあたしにマスタ−は,厳(おごそ)かに、そして柔らかくグラスを滑らしてくれる。 今の「シンガポ−ルスリング」も飲ませて貰ったのだけど(と言っても舐めただけだけど),全然違っていて、今のやつは、あたしにとっては ただのお酒としか思えなかった。 そんなあたしの反応を,冬夜さんもマスタ−も、少し楽しんでいるようだ。 このカクテルの持つ,とってもフル−ティ−で濃くのある甘さは、お子ちゃまのあたしにとっては「お子様向けの味」ではなく、まぎれもなく 「大人の味」だった。 一杯飲む事に,一段づつ大人への階段を登っている。 あたしにとって,そんな気分にさせてくれる特別な飲み物なのだ。 そんな事を思い返しながら,砂の上に置いてあるクリスタルガイザ−に手を伸ばし、キャップを開ける。 「あっ」 飲もうと見ると,底にヒトデが見えた。 というか,ヒトデが水の底にたゆたっているように見えた。 「ねぇ,冬夜さん、これ・・・」 と言おうとした瞬間,声がした。 「榊さ〜ん!」 見ると浜をこちらに駆けてくる人がいる。 その時のあたしは「誰だろう冬夜さんのお友達かな?」ぐらいにしか思っていなかったのだが・・・ 柔らかな風があたしの肌を撫でていく。 夕食の後,あたしはベランダでボンヤリとしていた。 先程迄目の前では,鮮やかすぎる夕陽のショ−が繰り広げられていたのだ。 本当だったら,何とロマンチックなシチュエ−ションだった事だろう。 こんなシ−ンを今迄何度夢見てきた事だろう。 隣には最愛の人がいて,やがて肩を抱かれ、静かに胸元に引き寄せられ、目と目が合い、自然に顔が近づいてきて、そして・・・ 「あ〜あ・・・」 また溜息が出た。 今日は溜息の大安売りだ。 部屋の中からは,ず〜っと、カリカリッカリカリッ、という微かな音。 振り向くと,デスクに向かい、冬夜さんが原稿用紙にペンを走らせている。 「一大決心をしてきた沖縄旅行だったのに」 すっかり暮れてしまった空には,幾つか星が浮かんでいた。 「夜は,星が降るように見える場所に連れていってあげるよって言ってたのに」 浜を歩くカップルの姿が照明の中に見え隠れしている。 「・・・」 もう溜息も出ないみたいだ。 あたしは,見えない海を見ようと、必死に目を凝らしていた・・・ 急な仕事だった。 私が抱えている連載の内の一本に,隔月刊発行の旅行誌があるのだが、それを今回はある若手に任せてみる事になったのだ。 編集長推薦でもあったので,私は何の心配もせず、他の急ぎの仕事を片付け、スタッフに囃されながらも沖縄に飛び発っていた。 久しぶりのバカンス,そして夏海を伴うという事に、私は少なからず高揚していたようだ。 それが,ほんの数時間で終わりを迎えるとは。 私を,宮古の携帯も通じないビ−チまで追ってきた担当編集者は、開口一番「榊さん、申し訳ありません!」と、噴出す汗を拭いもせず、頭を下げた。 どうやらその若手の文章が「赤」をいれるだけでは間に合わないしろものだったようだ。 明日の午前中までに挙げないと「穴」を空けてしまう事になる。 すでに私は,タイムリミットまでの時間を逆算し、その号の目玉に添ったテ−マを考え始めていた。 夏海も事情が飲み込めたようで,しぶしぶ納得はしていたようだ。 そこから私の思考は「仕事モ−ド」に切り替わり,夏海をその編集者に預け、待たせてあるタクシ−に飛び乗った。 事前の準備に時間を掛け,一気に書き上げるスタイルの私にとって、準備もなく書き進めていくスタイルは初めての経験だったが、 遅筆を改めたいと思っていた自分にとっては、逆にいい機会なのかもしれなかった。 ホテルのフロントで編集長からの伝言を受け取ると,部屋で素早くシャワ−を浴び、いつも携帯しているノ−トPCをセットした。 起動するまでにル−ムホンで編集長に連絡をいれる。 「スマン,榊」 「いいですよ,それより早くやっつけちゃいましょう」 何時もの癖で「仕事道具」を携帯してきてよかった。 仕上げは万年筆を使い原稿用紙に向かわないと,何かが足りないと感じてしまうのだ。 インクの量も充分だろう。 この宮古の海のようなインク。 これで書かないと私の文章にはならないのだ。 プリントアウトした資料に眼を通しながら,時々書き込みをいれる。 問題はないようだ。 「後は時間との闘いか,まぁ何とかいけるだろう」 そんな事を呟きながら,用意された大きめのデスクに原稿用紙をセットする。 「夏海,一人でも大丈夫だよな・・・」 私は、デスクに向かうと静かにペンを走らせ始めた・・・ 見上げると,飛行機が蒼い空を横切っていった。 「もしかしてあれに乗ってるのかな」 ベランダからは,相変わらず、夢のような景色が広がっている。 暫くボ〜ッとしていたようだ。 「あっ」 着メロが流れていた。 「涙そうそう」 朝食の時間だった。 担当編集者の安城さんからだ。 あたしはフラフラと移動を開始していた・・・ 朝一番の便で,冬夜さんは書き上げた原稿と一緒に東京に戻っていった。 あたしも一緒に帰ると言ったのだが「どうしても夏海に見てもらいたいものがあるから」と,あたしは遅い便で帰る事になったのだ。 朝食を済ませると「じゃあ早速行ってみようか」と安城さん。 「何ですか?冬夜さんがあたしに見せたいものって」 「ん・・・まぁ見てのお楽しみかな」 安城さんが,パラソルやらデッキチェア−やらク−ラ−ボックスやらを車に積み込むのを助手席で待ちながら、 バックミラ−に写る,サトウキビ畑とブ−ゲンビリアに目を遣っていた。 「昨日は全てがあんなにキラキラ輝いて見えたのに」 気がつくと,いつのまにか車はスタ−トしていた。 安城さんが何か声を掛けてきたようだが,よく分らなかった。 暫くすると車は急な坂を下り始める。 「ここは・・・」 「さぁ・・・着いたよ」 ドアが開いた途端「沖縄」に包まれた気がした。 あたしの,手に、足に、顔に、心と身体の全部に、強烈な陽射しが降り注ぐ。 と同時に,蝉達の大合唱が。 白黒から総天然色の世界へ。 軽い眩暈を憶える中,汗と一緒に「笑顔」が吹き出してきた。 「そうだよね,せっかく沖縄にきたんだもん・・・」 「夏海ちゃん,行くよ!」 安城さんが手招きしている。 「ハイッ!」 あたしは元気に答えていた。 「ここは昨日の浜ですよね」 「そうだよ」 「ここに何かあるんですか?」 「あぁ,この先の海の中にね」 「海の中?」 そんな話をしながら,安城さんとあたしは、波打ち際でスタンバイをしていた。 あたしの足の間を,小さな魚達が潜(くぐ)っていく。 「俺の後についてきて」 そう言うと安城さんは,ゆっくりと海へ入っていった。 あたしは,真っ青な空を見上げ、深呼吸を一つすると、水中メガネを掛け、シュノ−ケルの位置を直して、 安城さんの行くル−トをトレ−スしていった。 入った瞬間広がる,色とりどりのテ−ブルサンゴの見事さには,ただただ息を呑むばかりで、昨日初めて目にした時の驚きは 一生忘れないだろう。 あたしの横を,黄色い体に黒い斑点を散らした、可愛らしい小さなフグが、泳いでいる。 差し込む光のカ−テンが,絶妙のグラデ−ションを描いていた。 溢れる色,やわらかな海。 目を前に転じると,少し先で安城さんが、ある一点を指差している。 「何だろう?」 大き目のテ−ブルサンゴを越えると,そこにポッカリと空間が広がり・・・ 「あっ・・・」 テ−ブルサンゴに囲まれた,ちょうど真ん中辺り。 白砂の上に,まだ子供と思われるピンクのテ−ブル珊瑚が。 「ハ−トの形だ」 そう,その珊瑚は、綺麗なハ−トの形を描いていたのだ。 その中程にイソギンチャクがたゆたい,隠れクマノミが二匹、入ったり出たりを繰り返している。 「・・・」 あたしは,じっとその光景を見詰めていた。 時を忘れる程見詰めていた。 その内に視界がボヤけてきた。 暫くして,あたしは自分が泣いている事に気がついた。 「海の中でも泣けるんだ」 そんな事を思いながら,あたしは静かに涙を流し続けていた・・・ 「フ〜ッ!!」 シュノ−ケルと水中メガネを外すと,あたしは大きく伸びをした。 水滴がキラキラと陽射しの中で踊っている。 安城さんは,仕事があるからと先にホテルへ戻っていった。 後であたしをピックアップしてくれるそうだ。 振り仰ぐ空に,一筋の飛行機雲。 沖縄の陽射しは相変わらず強烈だ。 視界に,何時の間に広がってきたのか、もの凄い入道雲。 緑と蒼と白の鮮やかすぎるコントラストに,あたしは、ただただ、感動していた。 「冬夜さんがあたしに見せたかったもの」 もう一度あの光景を思い返しながら,あたしは思っていた。 唐突に,あの人の匂いに包まれた気がした。 島の,沖縄の鼓動を感じながら、あの人に抱かれているような錯覚に、あたしは包まれていた。 「あの人からは・・・海の匂いがする・・・」 そんな事を思いながら,あたしは立ち尽くしていた。 全てがクッキリとした,強烈な陽射しの中、いつまでも、いつまでも、立ち尽くしていた・・・ 2007/3/26(月)19:00 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて &4/1(日)16:50 同上 &4/10(水)16:30 同上 &4/22(日)17:40 同上 &9/6(木)15:59 藤沢「スタ−バックス」にて &9/6(木)17:28 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて & 2008/1/15(火)17:07 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて & 2008/3/23(日)15:59 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて & 2008/4/6(日)17:37 同上 & 2008/4/11(金)15:56 藤沢「スタ−バックス」にて & 2008/8/11(月)15:21 同上 & 2008/9/13(土)16:30 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて |
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