往く雲の如く 【レザ−を巡るエッセイ&スト−リ−】


〜冬夜〜


どうでもよかった。
あの時は、本当にどうでもよかったのだ。
「自暴自棄」とは少し違う,いや全く違う感情の波の只中にその時の私はいた。
大袈裟に言ってしまえば,生きる気力を失くしてしまったという事だろうか。
全ての事柄は色を失い,特に他人(ヒト)との距離が、少しづつ、だが確実に開いていった。
「付き合いも仕事の内」とよく言われるが,その言(ゲン)に忠実に従うのなら、私は「仕事」からも確実に
遠ざかっていったのだ。
まず,冠婚葬祭の類に全く顔を出さなくなり、知人が行う舞台の類にも足を運ばなくなった。
当然,酒席とも縁遠くなり、現場から地元に直帰するようになっていった。
そうなると不思議なもので,カッコ良くカウンタ−でグラスを傾けるなど、ハ−ドボイルド小説内だけの事なのだと、
自分には程遠い世界なのだと思っていたものが、一人でバ−巡りをするようになり、その内の数軒は、今でも
馴染みだったりするのだ。
行かなくなると半年や一年はあっという間に過ぎてしまうのだが,どの店も久しぶりにドアを潜る私を、まるで
昨日別れたばかりかのように迎えてくれる。
カウンタ−で氷を鳴らしながら,私はまたそんな思いに耽っていた。
視線を上げると,バイトの女の子と話していたマスタ−がこちらを向いたので「同じものを下さい」とグラスを前に滑らせた。
バイトの子はまだ確か大学生で,マスタ−から、シェイカ−の振り方や酒の銘柄などについて毎日厳しく
教えられているようだ。
「バ−テンダ−」も彼女の将来の進路の一つに入っているらしい。
時々,カクテルに詳しい常連に試飲をしてもらっているようだが、どうも芳しくないようだ。
計量スプ−ンを使うとはいえ,それだけで巧くいく筈はないのだ。
問題は分量ではない。
寸分の狂いもなく計算通り計れたとしても,グラスの中の液体はそれ以上には成れず、ただアルコ−ルを
喉に流し込む事になる。
ここや大概の店は計量スプ−ンを使用しているが,やはり私は目分量で手際良く水割りやショ−トカクテルを
仕上げてくれるバ−テンダ−に憧れてしまう。
シェ−カ−を振る姿はある種の儀式のようでもあり,リズミカルに奏でられる音は、これから注がれるカクテルへの
期待を否が負うにも高めてくれる。
とは言え,私がカクテルを所望するなど、半年に一度か一年に一度、饗が乗った時くらいの事で、女性を伴っている
時でも、肩肘を張った頼み方などはしなくなっているのだが。
だから本当は私がこんな事を言えた義理ではないのかもしれない。
しかし考えてしまうのだ,彼女がシェイカ−を振る姿を見ていると。
「んっ・・・マスタ−,水を替えましたか?」
「やっぱり分りますか」
「えぇ,何かいつものより硬い感じがしますね」
「実は向こうの手違いで発送が一日遅れてしまったみたいなんですよ」
私がここを気に入っている理由の一つに,水に拘っているという事が挙げられる。
マスタ−はシングルモルトが好きで,湘南では珍しい程の種類が棚に収められている。
何も知らなかった私は,マスタ−から様々な講釈を拝聴し、にわかシングルモルト好きへと変貌していったのだ。
今では数あるミネラルウォ−タ−の中から,シングルモルトには京都の水が一番適していると結論を出し
現地と渡りをつけたという話だ。
そんな拘りに私の心は擽られたりするのだ。
その他の理由は,マスタ−の人柄と、この店の佇まいだろうか。
殆どが手作りという山小屋風のシックで落ち着いた雰囲気が,私の気持ちを緩やかに包んでくれる。
「でも不思議ですねぇ,水なんかそんなに違わないだろうと思ってたんですが」
「冬夜さんはキチンとお分かりになりますよね」
「そうでしょうか」
「そうですよ,今みたいに二杯目に水が変わっても気がつかれない方は気がつかれないですし」
「・・・」
「やはり感覚が鋭いんだと思いますよ」
今度は舌の上で転がすようにしてみる。
「違う」という事は分る。
何故という細かい説明は出来ないが「違う」というのはハッキリと分かるのだ。
シングルモルトで気を魅かれたのは,長く寝かせられたものが必ずしも「美味い」とは限らないという点だ。
私の好む「ジュラ」も,一番若いボトルが私には一番美味く感じられた。
そして,ストレ−トやロックで飲むよりも水割りにした方が香りが立ったりするのだ。
それは勿論,飲み比べてみて分った事なのだが。
あとは嗜好の問題だが,一番いいのは多分「自分が美味い」と感じる、自分とシックリくる「相棒」のような存在と
巡り合える事ではないだろうか。
味が決まると不思議なもので,その場所に行くとそれを味わいたくなるのだ。(少なくとも私はそうだった)
私もそれぞれの馴染みの店では飲み物が違う。
ここではシングルモルトの「ジュラ」だが,後は泡盛だったり、焼酎だったりする。
その店が頭に浮かぶと,ある酒が飲みたくなり、ある酒を思い浮かべると、その店に行きたくなる。
「そういった関係はとても幸せな関係だなぁ」
などと思いつつ,三杯目をつくって貰おうとグラスを滑らせた。
「それもまた珍しい鞄ですねぇ」
グラスをさげながらマスタ−の目線は,私の左隣のスツ−ルに置かれたその鞄に注がれていた。
「これはアルミとレザ−を組み合わせた鞄なんですよ」
「ちょっと拝見させていただいていいですか」
「いいですよ」
と私はカウンタ−にそれを置いた。
「この丸味を帯びたアルミの感じとレザ−の取り合わせが絶妙ですね」
「ありがとうございます」と微笑みながら「これはアルミで車をレストアしている工場の社長さんが造られているもので・・・」
と,その鞄に出会うまでを、私はまたいつものようにマスタ−に語り出していた。
「また」と書いたのは,ここに来る度に私は新しいレザ−物を持っていたり身に着けていたりするのだが、
その度に好奇心旺盛なマスタ−の質問攻めにあうからだ。
実は私はそれを密かに楽しみにしていたりする。
マスタ−との遣り取りは確実に私の心を癒してくれていたのだ。
勿論,そんな事は重々承知の上で、マスタ−は私の相手をしてくれているのかもしれないのだが。
「・・・でもその工場まで行ってしまうっていうのが凄いですねぇ」
「何か,職人さんが好きなんでしょうね。出来る事なら直接話してみたいというか」
「成る程ねぇ・・・あっ、いらっしゃいませ!」
冬夜さんまた,と目配せして、マスタ−はカウベルを鳴らして入ってきた常連客を迎えていた。
「どうも」という顔見知りに会釈を返した私は,グラスを静かに傾けながら、また自分の世界に入り込んでいった。
そんな私の横顔を,滑(ぬめ)りを帯びたアルミの表面が映し込んでいた・・・

「冬夜(とうや)」
それが私の名前だ。
8月の暑い盛りに生まれた私に何故このような名前が付けられたのか。
理由は単純だった。
両親が冬の夜が大好きだったからである。
私には未だに理解しかねるのだが,父と母は、それこそ冬の夜に恋焦がれていたのだ。
ウインタ−スポ−ツも含め,冬の訪れと共に我が家は活気付いたものだ。
特にクリスマスに向けての準備には,他の家が引いてしまうほど力を注いでいた。
その前のハロウィ−ンは,言うなれば腕試しのようなものだったのだが、それでさえ、周りの人達は驚いていたものだ。
小さい頃,暗い少年として見事に苛められていた私がそれを乗り越えられたのも、一年のある時期だけでも
皆から羨望の眼差しを向けられていたからかもしれない。
それがなければ耐えられたかどうか怪しいものだ。
ただ,両親には感謝している。
自分でも気が付かない内に,私は辛抱強い人間になっていたからだ。
耐えるという事が苦ではなくなっていたのだ。
私は白紙の原稿用紙と一日中向かい合っていても苦にはならない。
何もアイデアが浮かばなくても,じっと待つ事が出来るのだ。
すると不思議なもので,いつのまにか筆が動き始め、私の意図する言葉を紡ぎ出してくれるのだ・・・

カモメが一羽,波間に漂っていた。
昨日までの雨が嘘のように空は見事に晴れ渡っている。
私はテラス席でゆったりと食後の珈琲を飲みながら,踊るように降り続ける春の陽射しに目を細めていた。
時々犬の鳴き声が聞こえる。
ここはペットOKのカフェなのだ(ただしテラスのみ)。
そちらに目を遣ると,何時の間にか犬が三頭に増えていた。
こんな気持ちの良い日は,犬達にとっても最高の日なのだろう。
自然に微笑(えみ)が零れるのを心地良く感じながら,目線を海に戻す。
カモメはもういなくなっていた。
遠くにシ−バスが見える。
私は伸びを一つすると,少し温くなった珈琲を飲み干しレジに向かう。
そして,犬達のじゃれあう様を横目で見ながら、船の発着場へと足を向けていた。

立ち上がる人の気配で目が覚めた。
少しウトウトしていたようだ。
楽しげな親子連れやカップルを見送りながら,私は最後に桟橋に降り立った。
すぐそこに「赤レンガ倉庫」が見えている。
以前から訪ねよう訪ねようと思いながらも,まだ足を踏み入れた事はなかったのだ。
「今日はあそこでPCを打とう」
その前にショップ巡りをしてみるつもりだった。
何の予備知識もないまま来たので,実は少しワクワクしている。
初めての場所は,それがどのような所であれトキメクものだ。
片手には今一番お気に入りの「プロペラ」の鞄。
鞄に向かう視線を感じながら,私はその建物を見上げ、深呼吸を一つしていた。

そう言えば,レザ−に興味を持ち始めたのはいつの頃からだったのか。
確かあれは40代以上の男性をタ−ゲットにした雑誌のコラムを任されていた時だった。
妻に先立たれ,半ば引き篭もり状態になっていた私に救いの手を差し伸べてくれたのは、新創刊されるその雑誌の
編集長を任された、以前の上司だった。
殆ど人との関係を絶ってしまっていた私をわざわざ訪ねてきてくれたのだ。
何も言わずあのバ−のカウンタ−で何杯かの水割りを静かに飲んだ後
「お前の才能を一番認めてくれてたのは奥さんだったじゃないか」
肩を軽く叩かれ「待ってるぞ」という言葉に何も答えられない私を残し,元上司は帰っていった。
その時の心境を何と言い表したらよいか分からないのだが,私は溢れ続ける涙を止める事が出来ずにいた。
マスタ−は,そんな私の涙が止まるのをじっと待ってくれていて,ジュラの水割りをそっと差し出してくれたのだ。
「もう一度・・・」
私にそんな思いを喚起させてくれたその夜の出来事を,私は一生忘れる事はないだろう・・・

その折に初めて,取材で様々なレザ−製品に触れたのだ。
そしてそれを創り上げる職人と呼ばれる人達にも。
この事も,私の乾ききってしまった心に気持ちの良い潤いをもたらせてくれる大きな要因となった事は間違いない。
元々人と話す事が好きだったという事もあるが,それ以上に私の心の芯に響いてくるものがあったのだろう。
記事を早く書き上げた後も私は,雑誌やネットで調べ上げたショップや工房に足を運び、取材を重ねていたのだ。
しかしそれは仕事としてではなく,純然たる趣味の範囲内での行動だった。
あれから早くも数年という時が流れていた。
お陰様でコラムは好評で,もうすぐ単行本として発売される事が決まっていた。
大手と呼ばれるブランドは勿論,今度は関西にまで足を伸ばしてみようかと密かに考えていたりする。
そんな事を思い返しながらあるショップをブラブラしていた時だった。
「わぁそれ可愛いですねぇ!」
立ち止まりそちらを向くと,カウンタ−の向こうから女性店員が好奇の目を、私にではなく、私の鞄に向けていた。
微笑みながら近づいた私に「それ何ですか?バッグですかぁ」
「えぇ,バッグですよ」
「何で出来てるんですかぁそれ」
「これですか?これは・・・あぁ、よろしければご覧になりますか?」
「えっ,よろしいんですか!?」
「どうぞどうぞ,僕もこいつの事を聞かれると嬉しいんで」
カウンタ−に乗せた鞄を彼女は繁々と見詰めていた。
「触ってもいいですか」「勿論,持っていただいても構いませんよ」
アルミの表面を愛をしげに撫でる彼女に「こいつは,アルミ&レザ‐で造られているんですよ」と私は何時もの説明を始めていた。
その間も女の子は食い入るように私の鞄を見詰めていた。
背中に「ありがとうございました!」という元気な声を受け店を後にする。
ふと足を止めて見た等身大の鏡には,デュアルテの薄手のレザ−コ−ト(ディアスキン)を羽織り,足元にはバニスタ−のブ−ツ
手にはプロペラの鞄を提げ、肩にはエンリ−ベグリンのレザ−ショルダ−といういでたちの自分が映っていた。
「あの子,何か決心したような表情をしていたな」
女の子のキラキラした瞳を思い浮かべながら,一階にあったカフェテリアに足を向ける。
座り心地の良い椅子に腰を埋めると,ミルクティ−を注文し、暫し外を眺めていた。
大桟橋の向こうに客船が停泊しているのか,煙突が一本だけ見えている。
シ−バスが行き交い,気持ち良さげに鳴き交わしているカモメの声が微かに聞こえる。
運ばれてきた紅茶を,暖めてあるミルクをカップに先に淹れ、注ぐ。
香りを胸一杯に吸い込んだ後,二・三度息を吹き掛け、目を閉じながら口に運ぶ。
静かに目を開けると「ヨシッ」と小さく心の中で呟き,ノ−トPCを開ける。
ここで新しいコラムを書き上げるべく,私はキ−ボ−ドを打ち始めた。
自分の心が静かに澄んでいくのを感じながら「いい文章が生まれそうだ」という期待感に胸がざわめく。
「タイトルは・・・そうだ,往く雲の如く〜レザ−を巡るエッセイ&スト−リ−〜にしよう」
その時私は既に「向こう側」に行っていたようだ。
そして,雲の行方を追っていたのだ。
気持ちの良い風に吹かれ,お気に入りのレザ−達を身に付けて。
顔を上げると,遙かベイブリッジに青い灯が燈っていた。

「やはり私は書き続けなければ生きてはいけないな」

側を通ったウエイトレスにブレンドを注文した私は「フ−ッ」と一息付いた後,PCの電源を落とした。
やがて少し疲れた私を柔らかく包み込むように珈琲の香りが忍び込んでくるだろう。

しかし私はそれが運ばれてきたのも気付かぬまま,外のイルミネ−ションを見詰め続けていた。

風は止まったまま,時さえも刻む事を忘れてしまったかのような不思議な夜が、始まろうとしていた・・・




2006/11/19(日)17:45〜11/28(火)15:06 茅ヶ崎「スタ−バックス」にて

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