降り積もる「I LOVE YOU」


〜始まりの章〜

 「涙が涸れるなんて嘘だ」

そう思ったのはいつの頃からだったのだろう。
泣いて泣いて泣き続ければ,やがて涙は涸れ、また新たな一歩を踏み出し始める事が出来る。
そんな内容の事が,形は少々違えど、いくつもの小説に描かれていたし、多くの人がまるで申し合わ
せたかのようにそう言っていた。
しかし,僕の涙は涸れる事がなかった。
涸れるどころか,泉の如く、後から後から溢れ出してきた。
思う度,自然に涙は浮いてきた。
涙には限りがあるんだと思い込まされていた僕は,この事実に大変狼狽した。
そして「涸れる事がないのならつきあうしかないな」という結論に達していた。

もう随分経つが,涙は一向に涸れる気配がない。
思う度,自然に溢れてくるのだ・・・

僕の海と言えば茅ヶ崎から江の島辺りだったし,彼女の海と言えば江の島から材木座辺りだった。

俗にいう湘南のど真ん中である茅ヶ崎に住みながら,僕が海を意識しはじめたのは、20代に入った
あたりからだった。
何故,突然海に行き始めたのかは思い出せないのだが,とにかく夏になると、いや、早い時は
ゴ−ルデンウィ−クの始まる頃から、陽に焼けていた。
決して体が丈夫という訳でもない僕が,夏の声を聞き始めると体調が良くなり、それまでだとよく引いて
いた風邪にも掛からず、一年で一番健康的な季節を迎えていた。
海に行き始めた頃は,茅ヶ崎の海水浴場から近い、テトラポッドの積んである辺りで時間を過ごして
いたのだが、ある時、江の島を見ながら「あそこまでチャリンコで行って見るか」と思い、早速、地元では
有名なダイクマで自転車を買い、その足で、江の島までサイクリングロ−ドを心地良い海風に包まれ
ながらクル−ジングしていった。
とは言っても,理由は他にもあったのだが。
運動不足であるのと,その頃はモヤモヤとした気持ちを抱えていたからだ。
途中,気持ちのいいポイントはないものかと、何度も立ち止まりながら、江の島を目指した。
左手にパシフィックホテルの威容が見える。
ある開けた場所に出た時,僕の目に飛び込んできたものがあった。
それは,一面に、そこここに咲き乱れていた。
「何だ?」
とチャリンコを止め,見ると、浜昼顔だった。
朝顔に似ている淡い紫色をした小さな花が,浜から一段高くなったその辺りの砂の上に咲いていた。
目を先に転ずると,暫くはこの群落が続いているようだ。
右手に,浜昼顔と海を眺めながら、再び、ゆっくりとペダルを漕ぎ出す。
そして,ある橋の上で止まった時、風の唸りが僕を包んだ。
もの凄い風だ。
思わず帽子の鍔を押さえる。
江の島がもう随分大きく見えている。
「風の谷・・・」
そんな言葉が僕の口から零れていた。
その,僕が勝手に命名した「風の谷」を後にした僕は、鵠沼プ−ルガ−デンの脇を抜け、海岸道路沿い
に目的地を目指した。
小田急線の終点である片瀬江の島駅から歩いて渡った事は何度かあるのだが,チャリンコで江の島へ
続く長い橋を渡るのは始めてだった。
江の島のシンボルである灯台が,緑の中から、頭をチョコンと出している。
快晴の今日,右手には富士山がクッキリと見えている。
見慣れた筈の風景がやけに新鮮に目に映る。
心地良い汗を流しながらチャリンコを降りた僕は,老舗旅館「二見館」の広い玄関を右に見てから、
昔から変わらない青銅の山門を見上げていた。
「二見館」は外壁が白く,独特の造りをしていて、例えれば、竜宮城の建物のようで、一度泊まって
みたいと思っている旅館だ。
写真でしか見た事はないのだが,夕陽に染まりながら入る檜のお風呂は最高だろうなぁと、いつも
一度中を覗かせてもらいたいと思いながらも、前を素通りするだけであった。
ここからは緩やかな上り坂で歩きになる。
山門を潜ってすぐの右側の2軒目に,絶品のラ−メン屋「はまや」がある。
江の島に寄るとここには必ず立ち寄り,醤油ラ−メンを注文する。
おやじさんとあばさんの二人で切り盛りしているようで,おやじさんは頑固一徹の職人さんという感じ
なのだが、その雰囲気が僕はまた好きだったりするのだ。
帰りに立ち寄る事にして,左右に並ぶ店を眺めながらブラブラと進んでいく。
その坂の右手中程に,同じく江の島を代表する老舗旅館「岩元楼・本館」がある。
別館は,片瀬江の島駅の目の前に建っているのだが、雰囲気からいってもこちらの方が僕は好きだ。
おっと,忘れていた。
青銅の山門を潜ってすぐの左手には,もう一軒の老舗旅館「恵比寿屋」がある。
そしてこの参道に入らず江の島マリ−ナを目指していった右手には「リゾ−トホテル洗心亭」
この4軒の旅館は,江の島を語る上で忘れてはならない場所だろう。
坂を登りきったその上には江の島神社が。
見上げながら左に視線を移すと,そこには小さな売店があり、おばあさんが一人静かに座っている。
ここにも必ずといっていい程立ち寄り「フル−ツ牛乳」を所望する。
小さい頃,銭湯によく置いてあったあれだ。
そしておばあさんと一言二言言葉を交わす。
おばあさんが元気だと,いつも何故かホッとしたものだ。
そのまま左に行くと「何だこれは!」というものが目に飛び込んでくる。
江の島名物「エスカ−」だ。
知らない人は興味半分必ずといっていい程乗るのだが,要は、ただのエスカレ−タ−である。
しかしこのただのエスカレ−タ−は、ただではなく有料で、しかも中々高いときている。
トップまで辿りつくと,そこには植物園&動物園と、シンボルでもある灯台が迎えてくれる。
その前には,売店やゲ−ムセンタ−があるのだが、あるところでエスカ−の切符を見せると、
「無料ですのでこの中からお好きなのをどうぞ」と、どうみてもガラスの小さな塊を選ばせられる。
そして言葉巧みに「このままだと何ですから記念にネックレスにしてさしあげましょう」と言われ、
「ネックレスは有料なんですが記念ですからね」という具合に半ば強引に買わされる派目になる。
だいたいの人が「記念ですから」という言葉に断る事も出来ず買って帰る。
巧い商売と言えば言えるのだ。
だが,僕がいつも辿るル−トは,正面から階段を登りながら行く道ではなく、江の島神社への最初の
石段を登った右手にある道を登っていくのだ。
その道の方が,江の島の森を、眼下には海を望みながら歩く事が出来、気持ちがいいからという事も
あるのだが、緩やかな坂道で階段ではないから、という理由もある。
とにかくその道を行きながら,ある「お茶屋」さんで一服する事にする。
そこは最近リニュ−アルされ,僕好みの木造りの民家風の建物が何ともいえない味を醸し出している
空間なのだ。
僕にとっては2度目の来訪となる。
途中,蝉時雨に耳を澄ます。
遠く富士の姿が見える。
流れる汗が心地いい。
空を往くトンビに導かれるかの如く,僕はその場所を目指す。
「フゥ〜ッ・・・」
目の前に「あぶら屋」という木看板が見えている。
暖簾を潜った僕に「いらっしゃいませ!」という明るい声。
蚊取り線香の匂いが漂う店内は,ここだけ「夏」から切り取られたような、そんな風情と表情を見せてく
れる。
席に座った僕に「ハイ、どうぞ」とおしぼりが差し出された。
「あっ,スイマセン」と顔をあげた僕の前で、眩しい笑顔が揺れていた。

そう,それが、僕と君との出会いだった。

あの時僕は酷く狼狽していた。
何故だか分らないが君から目を反らせなかった。
きっと君は僕の事を訝しく思っていた事だろう。
でも君は「あの、どうかしましたか?」と、その涼やかな声で小首をかしげ僕に聞いたのだ。
「いえっ,あの、この、黒カン・アイス下さい」と僕は平静を装いながら答えるのが精一杯だった。
その日は君の事が気になり,いつもはその世界に没入する読書どころではなかった。
夏の陽射しの中を吹き渡る一陣の涼風のような,風鈴の音色のような君の声に、僕は心を奪われて
いたのだ。
そして君の,柔らかな優しい笑顔に。
その立ち居振舞い全てに心を奪われていたのだ。
「一目惚れ」
まさにあの時の僕はそうだった。
そしてその日から,僕は時間がある限り「あぶら屋」に足を運ぶようになった。
少しでも話が出来るようにと,平日を狙って行くようにした。
僕は短い時間で「あぶら屋」の常連となった。
座る席も決まっていて,必ず君が注文を聞きにきてくれた。
その内交わす言葉もだんだんと増えてきて,僕が「こういった木造りの家って好きなんですよ」と言うと、
「私もそうなんです、やっぱり落ちつきますよねぇ」と君は答えてくれた。
それから他のお客がいない時には,この江の島の事や夏の事などを話しあうようになっていった。
そんなある日,僕は思い切って君を食事に誘った。
OKの返事を貰った時,僕は思わず、海風が強かったその日の海に向かって吼えていた。
弁天橋の上で,チャリンコを力の限り漕ぎながら吼えていた。
色んな気持ちが混ざり合い,言葉は出てこなかったのだと思う。
ちょうど夏が盛りを迎えようとしていた日の事で,僕は「俺の夏はこれからだ!」と胸の内に叫んでいた。

君と僕の夏は、そうやって走り始めたのだ・・・


〜盛夏の章〜

・・・食事に誘ったといっても,僕が洒落た店を知っている筈もなく、しかしきっと彼女は嫌がらないのでは
ないかという変な確信に押され、あの「はまや」へと案内した。
すると「あっ、ここ前から入ってみたかったんだけど、一人じゃ勇気がなくて」「私、ラ−メン大好きなん
です!」と,真っ直ぐな瞳を僕に向けて言ったのだ。
「御免ね,ホントはもっと洒落た店をと思ったんだけど、俺には思い浮かばなくて」
「うんうん,そんな事ないよありがとう」と言う彼女と一緒に暖簾を潜る。
カウンタ−に座ると僕はいつもの醤油ラ−メンを。
「私は味噌が好きなんです」と彼女は味噌ラ−メンを注文し、待つ間、ここのラ−メンがどれだけ絶品
かという話を僕は彼女に熱く語っていた。
そんな自分に僕自身が一番驚いていたものだ。
いつもは女性と一緒にいると思っただけで,緊張してしまい、身構えて喋る事しか出来なかったのに。
それがこんなにも楽しく喋る事が出来るなんて。
「今度は私も醤油を頼んでみようかな」
そう言って微笑む君の横顔はとても素敵で,僕は又釘付けになってしまった。
「どうしたの?」と聞かれても僕はまだ何も言えず,曖昧な笑みを頬に張り付かせているだけだった。

お茶は,江の電の江の島駅に向かう途中にある、僕のお気に入りの喫茶店にした。
ここの各種あるヨ−グルトジュ−スが美味しく,彼女に飲ませてあげたいと思っていたからだ。
ピ−チとオレンジのそれを飲みながら,僕達はお互いの事を話し合っていた。
僕は,自分が本当はシンガ−ソングライタ−を目指していたのだが挫折して、今は、たまたま唄っていた
バイト先で知り合ったある事務所の社長さんの紹介で、ナレ−タ−として仕事をしているという事。
ただどこの世界でも同じなのだろうが「なんだ俺でも出来そうじゃん」と高をくくっていた自分を嘲笑うかの
ように仕事は中々入らず,来たとしても上手く出来ず失敗を繰り返す日々を送っていたのだという事などを。
江の島にチャリンコで来始めたのも,毎日毎日を鬱々と過ごす自分を自分で見かねたからで、少しでも
前向きな気持ちになれればと思っての行動だったのだと。
今更と言われそうだが,僕は自分の「甘さ」加減に愕然としていたのだ。
君はというと,そんな僕の話を真剣に、時には祈るような面持ちで聞いてくれていたのだが、フイに微笑
んだかと思うと、ハッキリとした物言いで「大丈夫、貴方なら絶対大丈夫だから」と、真っ直ぐに僕の瞳に
向けて語りかけてくれていた。

その時からだ。
僕が少しずつ変わっていったのは。
「変わる」という事がどういう事かという事を,身をもって知ったのは。

その後君も,言葉を捜すように、自分の事を語り始めた。
「私,硝子細工とか陶器を創作したいと思ってるんだ」
少しハニカミながら,少し頬を上気させながら,君は呟いた。
ある大学の芸術学部を出て,意気揚々と「私の未来はもうこの手にあるわ」と信じて疑わなかったと
君は言った。
だから,現実が厳しいという事をしっかりと理解するまで時間が掛かってしまい、気づいてみたら、自信
過剰の嫌みったらしい自分になっていて、そんな自分の姿が許せず、もう一度己というものに立ち返る
為に、この大好きな地に自分の居を定め、再出発を切ろうと思ったそうなのだ。
小さい頃,母方の祖父と祖母が、材木座海岸近くに居を構えていて、毎年夏になると2週間程そこで
過ごす時間が待ち遠しかったそうだ。
帰る日になると,必ず「最初の日に戻らないかなぁ」と母の手をギュッと握り、困らせたそうだ。
そして近くの駄菓子屋で「ミリンダ」を飲む事が、幼い自分には大冒険の出来事で。
だから,そんな宝石を散りばめたような日々を送った記憶のある鎌倉に越してきたのだと。
今は,北鎌倉にギャラリ−を持っている、ある先生に師事していて、まずは個展をこの地で開く事が夢
なのだと語っていた。
「じゃあ,何でバイト先を江の島にしたの?」
僕は不思議に思っていた事を口にした。
「あの店は,写生に来た時にたまたま入ったんだけど、私、あの黒糖に魅せられちゃったんです」
「実は私沖縄が好きで,あの風景を、光と風と匂いなんかも含めて作品に描けたらなんて思ってるんだ
けど」
「あそこの黒糖は,沖縄は波照間島産のものだったの」
「こ〜んなに大きい塊を,糸でいつも切ってるんだから」
(店の一押しメニュ−は「黒カン・アイス」で,この黒糖を使ったカンテンと抹茶アイスのトッピングが絶妙なのだ)
そして,沖縄の魅力を一生懸命話し始めた彼女の楽しそうな顔を見ながら、僕も沖縄のその感覚に触
れてみたいと思うようになっていった。
僕も彼女と同じ感覚を共有してみたいと強く思うようになっていったのだ・・・

江の電に揺られ,一旦「鎌倉高校前」で降りる。
「ここから見る景色は最高なんだ」という意見は二人一致したものだった。
ここの駅の雰囲気は昔と変わらない。
僕も,父方の祖父母が大船に住んでいた関係で、小さい頃はこの辺りに連れられてきた記憶がある。
最近では,ふと思いたった時に立ち寄る程度になっていたのだが。
木のベンチの一つに座り,海岸通りの向こうに広がる海を眺めながら、電車を何台かスル−する。
そういう人は案外多いようだ。
「あっ,運がいいな」
次は乗ろうと思って待っていた電車は,床も木製の初期の頃の江の電だった。
最近,この車両に御目にかかれる確率は極端に低くなり、残念な思いをしていたのだ。
靴底から伝わる木の感触を心地良く感じながら,レトロな車内を見回してみる。
「ねぇ,次は七里が浜で降りましょう、とっておきのお店に案内するから」
銀鈴を鳴らしたような君の声に導かれ,僕等は七里が浜のホ−ムに立っていた。
駅を出て右へ行くと,海は目と鼻の先だ。
「あっそうそう,ここが私の家なんです」
彼女が指差す先には,広大な芝生の庭を持つ平屋の家が、三棟程並んでいた。
その向かって左端が君の家らしかった。
「へぇ,何かいい感じだねぇ」
「多分空きませんよって不動産屋さんに言われてたんだけど,何故か急に空いたのよねぇ」
「私は,これは絶対運命だって思って・・・」
君の声は,通り過ぎる車の音や、近くなる波の音を縫うように僕の耳に届いていた。
いや,心に直接届いていた。
七里が浜の広大な駐車場の中程に,君のとっておきの店が、午後の強烈な陽射しを受け、陽炎のよう
に揺れていた。
「バ−ガ−・キング」
アメリカから来た大手バ−ガ−ショップのチェ−ン店で,七里が浜店が日本進出の第一号店だという事だ。
「ここのを食べたら他のは食べられないんだから」
ラ−メンだけで少しお腹が心もとなかったので,僕もバ−ガ−に齧りついた。
「美味い!」
「ねっ,良かったぁ」
それから僕は度々そこを訪れる事になるのだが,彼女はこちら側(鎌倉辺り)の事に詳しかった。
「そういえば,昔ここら辺に海浜公園プ−ルがあったんだけど」
「うん,私知ってるよ、小さい頃良く連れていってもらったから」
「そうなんだ,僕は夜に良く連れていってもらったんだけど、何か不思議な感じがしてたなぁ、海水って
いうのも珍しかったよねぇ」
「じゃあもしかしたら,小さい頃会ってるかもしれませんね」
「そうだねぇ,君は可愛かったんだろうなぁ」
「あらっ,その言い方だと、今はもう可愛くないって聞こえるな」
「いやっ,そんな事はないよ、ホ、ホントだよ、だって、今の君は、まるで天使みたいだし、か、可愛い
なんてもんじゃないよ!」
言い終わった瞬間,君の悪戯っぽい微笑みに迎えられた僕は、自分がからかわれたんだという事に
ようやく気がついた。
「そうとう天然ね」
「でも,そんな貴方が私は好きだな」
満面の笑みでそういう君は,とびっきり素敵だった。

これから僕は「ホント、鈍感なんだから」「女心って全然分からないでしょう」「ちょっと人が良すぎるよ」
などと君に言われ続けていく事になるのだが、腹が立つ事なんか一度もなかったし、そんな君の
万華鏡を思わせるプリズムのような表情を見るのが凄く楽しみだったのだ。
そして君は,決して僕を馬鹿にするような事は言わなかった。
言葉の中にはいつも優しさが同居していたのだ。
君は僕に「自信」という翼をくれようとしていたのだろう。
今なら良く分かる,君は、あの頃の僕に一番足りないものを、何が必要なのかを、直感で嗅ぎ分けて
いたのだ。
僕が何回やっても途中で放り出す事になってしまったジグソ−パズルの足りないピ−スを,君は意図
も簡単に探し出して、完成させてしまったのだ。
しかし,ここからは僕の問題だった。
だって僕は完成した事など知らなかったのだから。
とにかく僕は,君というパ−トナ−を得て、自分の視界が広がるのを、世界が広がるのを感じていたの
だ・・・

「今度,私の家に招待するからね」
駅に向かう道の左側に君の家が見える。
「庭先にテ−ブルを出してビ−ルを飲むと美味しいのよ」
と言う君の瞳に,青い空が映っている。
でも,君の心の瞳には、違う映像が映っている気がした。
あの時,なんでそんな風に思ったのかは今でも分からないのだが、初めて君が持つ「憂い」のようなも
のを見た気がしたのだ。
江の電は走る,鎌倉目指して。
今回,彼女に言われて初めて知ったのだが、一区間の乗車賃が高い江の電にあって、非常にお徳な、
一日乗車券というものがあったのだ。
その名も「のりおりくん」
このあまりにも単純なネ−ミングに,僕は言葉を失っていたのだが、一言で全てを表して余りあるこの
名前にいつしか魅了されている自分を感じ「秀逸だ」などと、完璧な「のりおりくん」信者へと変貌を遂げ
ていったのだ。
かくして「のりおりくん」は,僕にとってこの時代を語る上で、切っても切れないアイテムとなっていた。

「あっ,ねぇ、次でちょっと降りてみていい?」
「えっ」
と戸惑う僕を尻目に,君がドアを潜る。
「由比ガ浜駅」
時代から取り残されてしまったかのような印象を与える、こじんまりとしたその佇まいは、今でも時々
思い起こされる。
「この道を少し真っ直ぐ行って右へ折れて暫く行くと海だから」
「由比ガ浜と材木座には言った事ある?」
「う〜ん,どうかなぁ」
昔ながらのクリ−ニング屋さんやお米屋さんの点在する道を君は足早に進んでいく。
君は「あそこが私の海なんだ」と,僕にどうしても見せたくなったからと、息を弾ませながら言っていた。
その日は潮の香りがやけにハッキリと感じられる日だった。
「ほら,ここが私の海!」
多分初めて目にするその海は,目を転じた先に注いでいる川を挟んで、こちら側が「由比ガ浜」向こう側
が「材木座」なのだと言う事だった。
江の島から茅ヶ崎にかけての海しか知らなかった僕の目に,その二つの海岸は、黄昏時の射光を浴び、
穏やかで、美しい印象を与えてくれた。
「海にも色んな表情があるんだね」
犬とフリスビ−に興じる女の子がいる。
流木に腰掛けて楽しそうに語らう高校生のカップルがいる。
デッキチェア−で,本を読む人がいる。
その風景を優しく包むように,どこからかサックスの音色が響いている。
波の音と,カモメの鳴き声・トンビの鳴き声と、海岸通りを走る車の音と、様々な音が重なり合い、風と
戯れながら、僕等を優しく撫でながら、砂浜の上を遊んでいる。
目の前に,見事な夕景が広がっていた。
僕は,横にいる君の体温を感じていた。
夕陽を全身に浴びている君は,とても綺麗だった。
その時気持ちの良い風が吹き,君の香りを僕の鼻腔に運んできた。
それまで僕は気付かなかったのだ。
こんな近くにいながら気付かなかったのだ。
「君は,湯上りの石鹸のような人だ」
僕はその時,そんな事を思っていたのだ、文脈なんてどうでもいいじゃないか、と心で呟きながら。
暑さのせいだけではない掌の汗を君に分からないようにジ−パンで拭いながら,自分の心臓の鼓動が
早くなるのを感じながら、僕は意を決して、君の手を・・・
「そろそろ行こうか!」
と突然君が僕の方を向き,あの無邪気な笑顔を浮かべていたので、僕は酷くビックリして、思わず半歩
跳び退ってしまった。
「どうしたの?」といぶかしむ彼女に「イヤッ、何でもない、何でもない、ハハハハハハ・・・・・」と僕は
内心の動揺を見破られないように、意味もなく、石を拾って海に投げていた。
僕はまだドキドキしていて,同時に、自分の臆病さ加減に少し腹を立てていた。
海岸通りに上がると「私ちょっと電話してくるからここで待ってて」と,君は少し先にある電話ボックスを
目指した。
君の後ろ姿が,いや、君自身が、オレンジと同化してしまったような、燃えるような夕焼けを浴びながら、
何故かキラキラと輝いているように僕には見えた。
同じオレンジに包まれている幸福に,僕は感謝せずにはいられなかった。
誰にというわけではないが,感謝せずにはいられなかった。
ただこの時,君が電話ボックスからもう出てこないのでは、と思ったのも事実だった・・・

「ゴメ〜ンッ!私急用が出来ちゃって」
と北鎌の先生のギャラリ−に急に行かなくてはならなくなってしまった事を,君は、逆にこちらが申し訳
なくなってしまう程に「御免なさい!」を連発していた。
「今日は誘ってくれてありがとう,とっても楽しかったわ」
「また電話頂戴ね,ギャラリ−かお店でもいいから」
「うん,それにお茶屋さんには時々行くしね」
「じゃあ又ね,私は先生の車に鎌倉駅に行く途中で拾ってもらうんだけど」
「僕は,由比ガ浜から江の電に乗って帰るよ」
「わかった!」
「それじゃあ気をつけて」
「じゃあ又ね!」
僕は君の後姿が完全に見えなくなるまで,見送っていた。
もう一度海に目を遣る。
誰もがオレンジの中に佇んでいた。
左手に視線を落とす。
「馬鹿だなぁ」
握ったり開いたりを繰り返しながら,呟いていた。
僕は左側が少し涼しくなったような,心の左半分が少し寂しくなったような、そんな心境に突然襲われ、
何かに追い立てられるように,足早に「由比ガ浜駅」を目指した。
この時の僕はまだ気がついていなかったのだけど,僕にとって君は、既にかけがえのない、大切な
存在になっていたのだ。
「この海の事,俺も好きになったみたいだ」
踏み切りの音がする。
鎌倉方面行きの江の電がやってきたようだ。
僕はこの見事な夕陽を「鎌倉高校前」から見ようと思いたち「藤沢」から帰る事にした。
ボンヤリと車窓を見つめる僕の耳に,次は鎌倉高校前というアナウンスが流れてきた。
それはまるで,海の底からの誘(いざな)いのように、僕の中に届いていた・・・

それからの僕は,何と言ったらいいのか、一言で言うならば、まるで別人のようになっていた。
何もかもが輝いて見えるといったら少しは分ってもらえるだろうか。
仕事の現場でも今迄悩んでいた事が嘘のように,言葉が自然に溢れてくるようになったのだ。
「どうした,何かいい事でもあったのかぁ、今日のなんか凄く自然で良かったぞぉ、お前やれば出来る
じゃないか」と、いつもしかめっ面をしているマネ−ジャ−からも、初めてお褒めの言葉を頂いた。
「いえっ,いつもと変わらないと思うんですけど」
と答えながら,僕は自身の内面の変化に気付いていた。
どこがどう変わったかというのを説明するのは難しいのだが,強いて言えば「自信」が持てるようになっ
たという事だろうか。
内面から湧き上がってくるのだ,マグマのように湧き上がってくるのだ。
振り返る事ばかりを繰り返していた僕は,一転、超プラス思考人間へと変貌を遂げていたのだ。
それはまさに「脱皮」と言ってもいいものかもしれなかった。
君という光に導かれ,ようやく僕は出口に辿り着けたのかもしれない。
スタ−トラインという出口に。
そう,これからなのだ、この先へ一歩を踏み出す事を許されたここからなのだ。
「君がいれば」
君と一緒ならどんな事でも乗り越えられる。
僕はこの時本気で思っていたのだ,君と二人ならと・・・

翌週,僕は君を誘い、片瀬海岸の西浜へでた。
「日本のマイアミへようこそ」の看板がやけにしらっちゃけて見える。
その日は35度を超える猛暑で,サマ−ベッドにさえ長く寝ていられなかった程だった。
「暑い!暑い!!」と,二人して何度もシャワ−を浴び、穏やかな波のなか、水遊びに興じていた。
昼食にカレ−を食べ,カキ氷を注文した時「あたしはやっぱりイチゴかなぁ」と彼女。
「俺は特にないかなぁ」「えっ,駄目だよぉそれは、今度からイチゴにしなさいね!」と、僕の頼んだ
ブル−ハワイを睨みつける。
僕は「ただ洒落のつもりだったのになぁ」と,君の素敵な横顔を見つめながら思ったものだった。
鼻の頭と頬っぺたに玉の汗を浮かべながら嬉しそうにカキ氷を食べる君の横顔を見つめながら,思った
ものだった。
午後からはエア−マットを借り,海の上で寝っ転がる事にした。
僕の時計はダイバ−ズ・ウォッチではなかったので,君のを借り、マットの前方に置いていた。
何か音がしたようだったが,ウトウトしていた僕は、そのまま暫くの間、波の音を聞きながら漂っていた。
そして目を開けた時,気付いたのだ、君の時計がない事に。
慌てふためいた僕は,ゴ−グルを付け海中を捜したのだが見つけられず、足に何か触れないかとそこら
中歩き回っていたのだがそれらしいものの感触を掴めず、諦めざるを得なかった。
君といたポイントからは100メートル程流されていたようだ。
「何と言おう」と,浜伝いに戻る。
エアーマットを力なく引き摺りながら帰ってきた僕を見て「んっ,どうかした?」と君。
「あの・・・御免!君のダイバ−ズ・ウォッチ海に落としちゃったんだ」
君の顔をまともに見る事の出来ない僕に向かって「・・・そうなんだ,あん、大丈夫だから、そんな気にし
ないで、あれも大分くたびれてきたからそろそろ買い換えようと思ってたところだったんだ、だからちょう
ど良かったのよ」と明るく答える君に、僕はあの時どれだけ助けられた事か。
しかし僕は知らなかったのだ。
君が一瞬見せた憂いの表情を。
一瞬張り付いた,ショックな表情を。
あの時,君の顔をしっかりと見て言っていたならば、微妙な表情の変化に気付いていた筈なのだ。
あのダイバ−ズ・ウォッチが君にとってどれだけ大切な物だったのかという事を。
あの日の僕は,夕御飯を食べて別れるまで、君に励まされっぱなしだった。
そして数日後,僕は君にプレゼントしたのだ、お揃いの男女ペアのダイバ−ズ・ウォッチを。
喜ぶ君は,本当は喜んでいなかったのだという事が、今ならばよくわかる。
単純な僕は,微塵も疑っていなかったのだ、君が心から喜んでいるのだという事を。
ペア−・ウォッチを一番喜んでいたのは,誰でもない僕自身だった。
そんな僕に,君の事がしっかりと見える筈などなかったのだ。

あの頃,片瀬海岸・西浜に「サムタイム・ハウス」というビ−チハウスが登場し、当時としてはお洒落
なそこに僕等は何度か通っていた。
広いウッドデッキにパラソルの白と緑がとても鮮やかで,スタッフもキビキビとしていて気持ち良かった
のを憶えている。
いつもだいたい15時位にはあがり,シャワ−を浴びて、そこのデッキで冷たいカフェオレを飲みながら、
傾いていく時間を見ているのが好きだった。
一度そこのスタッフから「サ−ビスですので」と言われて,ポラロイド写真を撮ってもらった事がある。
渡されたその一葉には,とびっきりの笑顔を溢れさせた、君と僕が写っていた。
「これ,貴方が持っていてくれる」「えっ,僕は君に持っててもらいたいと思ったんだけど」「ありがとう、
でもあたしよく色んなもの失くしちゃうから、だから、ねっ」
目を遣ると,テ−ブル上の二人が半分夕陽に包まれている。
海からは,子供達の嬌声。
君の真っ直ぐな瞳に向かって,僕は「うん」と呟いていた・・・

「綺麗・・・」
そう呟く君の横顔に,様々な色が溢れている。

「江の島花火大会」
夏と言ったら花火と思い込んでいた僕は,どうしても君を誘いたかったのだ。
「じゃあ、あたし浴衣で行こうかな」「あたしこれでも着付けも出来るんだよ」と,向日葵のような大輪の
笑顔を見せた彼女は、僕よりもその日を待ちわびるようになっていた。
「お待たせ!」
振り向いた僕は,口を開けたままポカンとしていた。
白地に薄桃色と空色の朝顔を散らせた浴衣に身を包んだ君は,いつにも増して可憐な印象を湛えて
いた。
アップにした髪も,その姿にしっとりと似合っていた。
そして,石鹸の香りが仄かに漂っている気がした。
まるで君の周りだけが光輝いているようだった。
「なによ,何も言ってくれないの?」
「・・・えっ,いっいやっ・・・あっ、雨降らなくてよかったね・・・」
「・・・もう!先行くね!」
「綺麗だ!すっごく綺麗だ!!」
思わず大声を出した僕に周りの人達が訝しげな視線を当ててくる。
「バカッ,恥ずかしいじゃない」
と小声で言う君に「だって,だって、ホント、綺麗だったから」と今にも消え入りそうな声で答える僕。
「さっ,早く行きましょう」
機嫌の直った君は,僕の手を取り、足早にサイクリングロ−ドを目指す。
会場近辺で見るのもいいのだが,今日は少し離れた、昼間は「浜昼顔」が群生している場所から見よう
と思っていたのだ。
そこは僕が好きな風景の一つで,機会があれば君を昼間連れてきてみせてあげたいと考えている
場所でもあったのだ。
少し涼しくなった海風に吹かれながら,他愛無い話をしながらポイントを目指す。
そこは,砂浜から上がってくると、少し高くなった丘のような場所だった。
決めていた場所にビニ−ルシ−トを敷く。
ここら辺からはどこからでも江の島の花火は見えるのだ,茅ヶ崎海岸からでも。
君が作ってきてくれたサンドイッチと,淹れてきてくれた珈琲を飲みながら、静かにその時を待つ。
暮れていく世界の中,君のうなじだけが白く浮かび上がる。
まるでそこだけ発光しているかのようだ。
蒼く暮れていく空の下,江の島の灯台が活動を始める。
僕は最近の仕事の話を君にしていた。
今度初めて大きなドキュメンタリ−番組のNAを任される事になった事。
君と知り合ってから,僕はまるで生まれ変わったような気持ちになった事など。
微笑みながら君は「それはあなたがそれだけのものを持っていたからよ」「今それがようやく目を覚ま
したのよ、あたしが原因じゃないわ、あなた自身の力よ」
君の言葉はまるで魔法のように僕の周りを回っていた。
違うんだ「君がいるからなんだ」と,僕は心の中で呟いていた。
そうなんだ,君の言葉が魔法なんじゃなくて、君自身が「魔法」なんだ・・・と・・・
気がつくと,君は真っ直ぐに僕を見詰めていた。
揺るぎのない,一点の曇りもない眼差しで、僕を見詰めていた。
やがて柔らかくなった風に抱(いだ)かれるように,二人の影が一つになっていった。
歓声と,鮮やかに夜空に咲く大輪の花を背景に、そのシルエットは完璧に一つに同化していた。

それは,ひぐらしと油蝉が競演を始めた、夏が秋へと心を移していく日の出来事だった。
僕はそれでも「夏はこれから!」と信じて疑わなかった日の出来事だった・・・

あの日からだ,僕と君の距離が急速に近くなったのは。
会えた日も会えなかった日も,僕達は毎日電話で話していた。
それこそ言葉は湯水の如く湧き出てきたのだ。
君の家にも足繁く通うようになっていた。
初めて庭にテ−ブルを出してビ−ルを飲んだ日,夜空の澄んだ様(さま)に感動して、二人いつまでも
空を見続けていた。
遠く近く耳に届く潮騒をBGMに,僕は「今」という瞬間を思い切り抱きしめていた。
いや,本当は君を抱きしめたいくらいだった。
ただ「まだその時ではない」と,僕自身が囁いていたのだ。
君の家はとても居心地が良い作りになっていた。
ペンキの白と芝生の緑のコントラストが素晴らしく,まるで夏という季節の為にそこに存在するかのよう
だった。
レトロな木の扉の取っ手には流木が使われており,入るとこじんまりとした玄関が。
左側に少し大きめのシュ−ズケ−スと,イルカを模したウインド・チャイムが涼しげな音色を奏で、訪れる
人を迎えてくれる。
正面には少し広めのリビング&ダイニング(10畳程)と,その奥には和室(6畳)、右奥にベッドル−ム
(6畳)その手前にバススペ−スがあり、トイレは玄関の右となっている。
ダイニングには,大きく少し歪(いびつ)な一枚板のテ−ブルを囲むように、木造の椅子が四脚と、リビン
グには、生成りの生地が気持ちいいゆったり目の二人掛けのソファ−があり、その前にテレビが鎮座
していた。
食器棚もそうなのだが,みんな君がフリ−マ−ケットでゲットしたもので、それぞれ木の放ついい雰囲気
に包まれていたので購入したのだと言っていた。
それから,リビングと和室の扉は取り外され,非常に開放的な空間が形成されていた。
ここは,ぐるりを芝生の庭で取り囲まれており、ちょうど海側の大きく取られた窓を開け放つと、心地良い
海風が部屋中に溢れ、窓際や、所々に下がっているウインド・チャイムが、様々な音色を奏で始めるの
だ。
これらには全てステンドグラスのような物が使われているのだが,その色合いと形は、僕の心を鮮やか
に掴んでいた。
「いいねぇ、ねぇ、これ、どこで買ってきたの?」「えっ、皆、あたしの作品だよ」「ホント!?凄いじゃない」
君はこの家に越してきた時「この家に合うウインド・チャイムを作ろう」と突然思ったそうなのだ。
沖縄の琉球硝子や焼き物に心を奪われていた彼女は,それを、この湘南の地に合った物へと進化させ
られないかと考えていたそうなのだ。
そして始めに辿りついた形が,このウインド・チャイムであり、屋根に鎮座しているシ−サ−なのであっ
た。
沖縄にはそれこそ数え切れない程の沢山の種類のシ−サ−があるそうなのだが,彼女の創るシ−サ
−はペタンとした感じで,愛くるしい表情を湛えていた。
出掛ける時と帰ってきた時には,必ず挨拶をするのだと言っていた。
「まだ研究段階だから,売り物ではないんだけどね」「そうかなぁ、俺はすぐにでも売れるんじゃないかと
思うんだけどな、ねぇ、俺が最初の客になるから、シ−サ−とウインド・チャイム、作ってくれないかな」
「えっ,でも」「頼むよ、俺、すっごく気にいったんだ二つとも」
少し強引に僕はそんな事を言っていた。
だってお世辞じゃなく,本当にそう思ったのだから。
それに僕は君の力になりたかったんだ。
「君の為に何が出来るだろう」
その頃毎日考えていたのは,その事だったのだから。
飾ってあるものをくれようとした君を制して「僕だけの作品が欲しいんだ」と言って君を納得させた。
それから自然に沖縄の話になり,あの海の色・空の色・森の色・光の色・風の色・土の色・島の色を、
それぞれの感覚で作品に宿しているア−ティストの工房を毎日・毎日、時間の許す限り訪ね歩いた事。
自然体でそれらを成している人達に触れ,自分も自分だけの色を、形を、風合いを現わしたいと切に
思うようになったのだという事。
何よりも,人が大好きになったのだという事。
焼き物で衝撃を受けたのは,色合いを付けたりする時に使う釉(うわぐすり)に黒糖を使っていた方がい
たという事実で、その色合いが見事だったという事。
勿論それは試行錯誤の末その方が編み出した方法であり,ただ黒糖を溶かし込めばいいというもので
はないのだそうだ。
そんな話をし始めると,君は時間という概念など失念してしまうようで、窓ガラスを閉め、灯りを付けたり、
宅急便の応対などは全て僕の役目となる。
だって君は,僕が珈琲を淹れてあげた事だって、全然憶えていないのだから。
「あらっ,こんなに暗くなっちゃって、何で教えてくれなかったのよ」「いや,僕は何度も言ったよ、君に
・・・」「もう,またあの店に行き損なっちゃったわ!」
と暫しプンプンした後「あ〜お腹空いた」とおもむろに台所に立つのだ。
僕は君が台所に立っている姿を見ているのが好きだったりする。
訪ねてきて,玄関を上がってすぐの左側にあるそのスペ−スに君が立っていたりすると、妙に嬉しい
気持ちになったものだ。
僕はどうやら,君が何かをしている姿を見るのが好きなようだ。
料理を作っている,制作作業に没頭している、物思いに耽っている。
そんな君を僕はいつまでも見ていたいと思ってしまう。
「そろそろ出来るから,テ−ブルのセッティングよろしくね」
僕は食器棚から,いそいそと君セレクトの陶器達を出し、並べていく。
陶器も早く作り始めたいらしいのだが,今はまだ土が決まらないので、無理なのだと言っていた。
だから,という訳ではないのだろうが、陶器は全て無垢の色、白で統一されていた。
茶器や珈琲カップもそうなのだ。
少し肉厚のある丸みを帯びているその陶器達は,ある有名なメ−カ−の物なのだそうだが、僕には
皆目検討がつかない代物だった。
しかし,それが使いやすい物だという事はすぐに分り、僕は密かに気に入っていたのだ。
特に,珈琲カップとスプ−ンは大のお気に入りだった。
君は料理も上手く,和・洋・中と、日々献立が重ならないように工夫をしてくれていた。
決して豪華さがある訳ではないが,シンプルな、君自身のような真っ直ぐなその料理達を食べるのを
僕はいつも心待ちにしていた。
君も家で食べる方が好きなようで,だから外食などまだ数える位しかなかった。
外食する時も,君の探究心を満たす為に食べるようなもので、僕もその料理の感想を詳しく求められたり
するので気が抜けず、出来れば外で食べたくないというのが正直な気持ちだった。
しかし君のあの真っ直ぐな瞳で見詰められると「イヤ」とは言えず,それが人気の店だったりすると、
僕が予約を入れたりする事もあった。
「さぁ,じゃあ早く食べて貴方の番組をゆっくりと見ましょうね」
そうなのだ,今晩は僕が担当させてもらったドキュメンタリ−番組のオンエア−日だったのだ。
「ねぇ,どんな風に喋ってるのかな?私ず〜っと楽しみにしてたんだから」と君は瞳を輝かせながら僕の
目を覗き込んでくる。
「いただきます!」と言いながら,曖昧な微笑みを顔に張り付かせて食事を始める僕を、君がじ〜っと
見詰めている。
「この海老チリ美味いね」という僕に「ねぇ」と一言置いた後「もっと自信を持ちなさい、貴方に一番欠け
ているのはそれなんだから、そして貴方のいいところは、どんなに褒められても決して天狗にならないと
ころ、それが貴方の美徳でもあるんだから、と同時に、一回位、天狗になってもいいかもな、なんて思っ
たりもするんだけどね」
そんな事を,あのとびっきりの笑顔で言われたりするものだから、僕は思わず「うん」と答えたりしてしま
っているのだ。
こうやって君に言われる度に,僕は「脱皮」を繰り返していったのかもしれない。
僕はこのほんのひと月程で,確かに大きく変わっていた。
一番は心の部分だ。
励まされるという事が,どれだけ安心感をもたらし「俺もやってやるぞ!」という気持ちを喚起させた事か。
そして僕は,スタジオのモニタ−の向こうに、いつも君を思い描いていた。
「君に届けたい」
そんな思いの中でいつも臨んでいたのだ。
君だけに語りかけていたのだ。
誰でもない,君だけに・・・

エンドロ−ルが流れていた。
僕は君がどんな反応を示しているのかが怖くて,途中一度も君を見なかったのだ。
「いやぁ,実はこの時スタジオでさぁ」とおどけて言い掛けた僕の肩に、君が凭れ掛かってきた。
「ハッ」と胸を衝かれたのは,君が涙を浮かべていたからだ。
言葉は出て来なかった。
手は自然と君の肩を抱いていた。
「・・・良かったよ・・・」
小さな,しかししっかりとした声で君は言った。
ニュ−スに移っているテレビにリモコンを向ける。
暫しの静寂の後,風と波の音が、曳くように満ちるように交じり合いながら届いてきた。
僕は君の髪を優しく撫で続けていた。
すすり泣いていた君の瞳に溢れる雫を,僕は指の腹で拭い続けてあげた。
ふと僕に笑いかけたかと思うと,スックと立ち上がった君は、僕の手を取り静かに歩き出した。
扉を開けた先には,初めて目にする「ベッドル−ム」が。
僕を向いた君の瞳はとても潤んでいて,突然、狂おしい位、愛しい気持ちが突き上げてきた。
その本流に逆らう事なく,僕は本能のままに君を抱きしめていた。
僕の腕の中で,小さな君は震えていた。
でもその震えは「怖さ」からくるものではないと,何故か僕には伝わっていた、痛い位伝わっていた。
「愛してる・・・」
それ以外の言葉はいらなかった。
いや,言葉などいらなかった。
僕は君をベッドに座らせると,優しく口付けを交わしていた。
君の両手が僕の首に回される。
それから二人は,ブル−のシ−ツの海に身を委ねていった。
「まるで人魚のようだ」
そんな思いが掠めたのも束の間,二人は深い深い海の底へと、時には激しく、時には穏やかに導かれ
ていった・・・

「・・・・・」
暗い。
「ここはどこなんだ?」と心が呟き,一瞬の空白の後、思い出していた。
隣には安らかな寝息をたてている君がいた。
僕の左手はちょうど枕代わりの役目を果たし,まだ君の肩を抱いていた。
どうやらこの体勢がきつくなった為,目を覚ましたようだ。
僕は慎重に君の頭を少し持ち上げると,左手を静かに引き抜いた。
完全に感覚がなくなっている。
棒のようになってしまった腕を抱え,暫くじっとしていた。
すると,じょじょに血が巡り、生き返ってくるのが分った。
左腕をさすりながら「まるで海の底にいるようだ」と思っていた。
最初は暗いと感じていたのだが,目が慣れてくると、部屋がブル−に染められている事に気が付いた。
多分,今宵は晴れ渡っているのだろう。
そして月の灯りが冴え冴えと全てのものを照らし出している事だろう。
こういう晩は時々ある。
時々あるが,こんな風に出会える事は稀だ。
僕は君を起こさないようにそっとベッドを抜け出し,芝生の庭に出た。
「やっぱり」
空はまるで,昼間の蒼の明度だけを落としたように晴れ渡り、見事な月が辺りを照らし出していた。
芝生には,その月の光の雫が、零れて弾けているようだ。
ふと気配を感じ振り返ると,縁側に君が立っていた。
腕を組み,ちょっと頬を膨らませて、立っていた。
「もう,こんな夜はめったにないんだから,独り占めにするなんてずるいわよ!」
「ごめん,ごめん、君が気持ちよさそうに眠ってたもんだから」
「言い訳はいいわよ〜だ!・・・さて、こんな時に喧嘩しててもしょうがないから一時休戦という事で、
ハイッ、ビ−ルで乾杯しましょう!」
と,君は缶ビールを2本持って降りてきた。
テ−ブルに座り,僕等は月に向かって乾杯した。
月光を浴びた君は,月の雫に包まれた君は、本当に綺麗だった。
僕は君の横顔ばかりに見とれていたのだ。
「こんな夜がずっと続けばいいのに」と切に願っていたのは事実だ。
潮騒と月の光の中,二人はいつまでも空を見上げていた・・・

「う・・・ん・・・」
眩しさで目が覚めた。
投げ出された僕の左腕の中に君の姿はなかった。
「そうかぁ,今日は早く出掛けるって言ってたっけ」
まだ霞が掛かる頭を回転させながら,僕はベッドを抜け出した。
欠伸を噛み殺しながらリビングに。
キッチンのテ−ブルには,焼き鮭と玉子焼きが。
「お味噌汁の具は,貴方の好きなもやしです。御飯は食べ終わったら電源を抜いておいて下さい。
それから食器はシンクの中の入れ物に浸けておいて下さい。」
君のハッキリとした,それでいて丸みを帯びた文字が、ブル−を基調にした便箋に踊っていた。
僕は歯を磨き,髭をあたると、お茶を淹れ、味噌汁を温め、御飯をよそり、席に着いた。
外はまだまだ夏の陽射しに溢れているようだ。
室内は程よく冷房が効いていて心地良い。
波の音をBGMに食事を進める。
僕は自分がとても満ち足りた時間の中にいる事を感じていた。
彼女が,午前中はアトリエで,午後からは「あぶら屋」だった事を憶いだし、江の島に周ってから
夕方の仕事に向かおうと考えていた。
昨夜(ゆうべ)を境に,僕と君の距離は、本当に急速に縮まっていた。
というより,完全にシンクロしていた。
エアコンの風に,ウインドチャイムが涼しげな音色を奏でる。
僕は突然,全てのそれを鳴らしたいという衝動に駆られ、エアコンを停め、窓を全て開け放った。
ムッとした熱気の後を追って,海風が駆け抜けていく。
まるで風そのものが音に姿を変えたような響きの中,僕はいつまでも海の方角を見詰めていた。
汗が滴り始めるのも構わず,ただ、見詰めていた・・・

風はすっかり秋の気配に彩られていた。
陽射しにはまだ勢いがあるのだが,風の中には秋特有の涼しさが同居していたのだ。
先日オンエア−されたドキュメンタリ−番組のNAが好評で,僕はこの秋から始まる旅番組のメイン
ナレ−タ−に抜擢されていた。
それは同時に,自身初のレギュラ−番組となった。
君はまるで自分の事のように喜んでくれて「ねぇねぇ,毎週・毎週あなたの声が流れるんでしょう、それ
もゴ−ルデンタイムに。スッゴ〜イッ、もうみ〜んなに自慢しちゃうんだから、あれはあたしのダ−リンな
んだからって!」
「ダ−リン」という言葉に,心臓が早鐘を打ち始める。
ドキドキしていた,息苦しい位ドキドキしていた。
僕はその日「結婚」という二文字を初めて頭に思い描いていた。
そしてそれは自然の成り行きとして到達する場所なんだと,微塵も信じて疑わなかったのだ。
ただ,仕事がもう少し軌道に乗ってからと考えていた。
自分がしっかり稼げるようになって,君の創作活動をサポ−トしてあげるんだと。
だからそれまでは,君には申し訳ないけど、二人で頑張るんだと。
無邪気に笑う君に向かって,僕はそう心で語りかけていた。
「君の為に,君がいるから僕は頑張れるんだ」
思いも新たに,今迄以上にその言葉を強く心に刻む僕がいた。

あの日を境に,僕と君の同棲生活は始まったのだ。
時には午前様になってしまう日もあった。
そんな時君は,自分の朝がどんなに早かったとしても、僕の帰りを待っていてくれるのだ。
仕事の内容や一日の出来事を君は盛んに聞きたがった。
夜はそんな二人にとっては,とても短かすぎた。
そして,どんなに時間がなくてどんなに疲れていても、最後には必ず愛し合った。
まるで明日にでも世界が終わりを告げようとしているかのように,お互い、求め合っていた。
まるで何かに追いかけられているように,求め合っていた。
「少しでも冷静に考える事が出来たら」と今の僕ならば思う。
しかしあの時は,君に対して僕は余りにも盲目であり過ぎたのだ。
僕の瞳の中には君しか住んでおらず,君の瞳の中にも僕しか住んでいないのだと。
僕の世界は君を中心にして回っていたのだ。
お互いが休みの日などは,一日中ベッドの中で過ごした事もあった。
「ようやく土が決まりそうなんだ,そしたら、一番最初に窯に入れる作品をあなたにあげるね」
ウインド・チャイムはもう進呈されていて,自宅の玄関で涼しげな音色を奏でていたのだが、何かしっくり
こず、君の家の仲間に加えさせてもらったのだ。
ペンギンの彼は,心なしか、おっとりとした音色を奏でているように聞こえた。
君に言わせると僕は「ペンギン」に似ているそうなのだ。
容姿がという分けではなく,雰囲気がという事のようだっだが、君の笑い転げ方は僕を微妙に傷つけて
いた、というか内心かなりショックを受けていたのだ。
「どんな焼き物になるんだろうね」
「そうねぇ,この湘南の光や風や海を感じてもらえるようなものになればと思ってるんだけど」
「何か凄く楽しみだな,どんな色が生まれてくるのか」
「でも土ってそんなに大事なんだね」
「うん,弘法筆を選ばずとは言うけど、やっぱりねぇ」
「もしかしたらいつかそういう境地に達する事が出来るかもしれないけど・・・」
土の事については結局君は教えてくれなかった。
これはいくら貴方でも話せないといって。
僕も君に感化されたのだろう。
「言葉」の中に,この地の、海・風・光などが自然に溶け込んでいるような語りが出来ればと思うように
なっていったのだ。
そんな事が出来たらどんなに素敵だろうと,思うようになっていったのだ。
鳥の囀りが潮騒の合間に聞こえてくる。
いつのまにかカ−テン越しに見える空の色が明るさを滲ませている。
「そうだ,ちよっとゴミ出ししてくるよ」
朝の空気が心地良く僕を包んでくれる。
大きく深呼吸を一つ。
空にはまだ星が瞬き,上弦の月が品良く浮かんでいた。
潮の香はまだしない。
部屋を見遣ると,どうやら君は眠りに落ちたようだ。
「いい夢を見られるといいね」
こんな朝をもう何度迎えたろう。
「おはよう!」
「あっ,おはようございます!」
いつも寄る酒屋のご主人と挨拶を交わす。
毎日欠かさずジョギングをされているのだ,もう3年になるという。
今日がまた静かに,当たり前に動き出した。
そして,こんな朝を、僕はこの先もずっと過ごしていくのだろうと思っていたのだ。
それは当たり前なんだと。
疑問など微塵も抱かなかったのだ。
朝露に濡れて,朝顔が今日も美しい姿を咲かせている。
何か君に似て「凛」とした風情も醸し出しているように見える。
「きっとご主人様に似たんだね」
と,まだまだ元気な朝顔達に語りかけていた。
ふいに,君がこの朝顔達の種を丹念に蒔いていた光景が憶いだされた。
「頑張って綺麗な花を咲かせてね」
「いつもそうやって話しかけてるの?」
「うん,でもこの子達だけじゃないわよ、ウインド・チャイムにだって、シ−サ−にだって、家にだって、
芝生にだって、風にだって、光にだって、空にだって、ぜ〜んぶに話しかけてるの」
「料理しながらもだもんね」
苦笑しながら僕は答えていた。
だって,炒めている野菜達や、鶏肉にまで君は話しかけているのだから。
「大丈夫?ちょっと熱すぎるかな・・・そう・・・良かった・・・」
「何だって?」
「あっ,うん、気持ちよく焼いてもらってます、って」
そんな時,僕はいつも幸福な気持ちに包まれ、君という人と巡りあえた事を本当に嬉しく思うのだ。
水を遣っている君が「見て!」と言った。
朝顔の種が蒔かれた土の上に,小さな虹が掛かっている。
まるで,ジョウロから降らされた水というスクリ−ンに映し出された映像のようだ。
「あん,もう少し見てたかったのにぃ」
「よ〜しもう一度,また掛かるといいな」
そんな,夏の陽射しの中にいる君は、とても生き生きとしていて、その汗さえも眩しく輝いてみえていた。
「この虹みたいに七色の花を咲かせたりしてね」
勿論,七色とはいかなかったが、濃い藍と、薄紫と、淡い桃色の、とても綺麗な饗宴となったのだ。
萎んでしまった花を一つづつ丁寧に摘みながら「毎朝の日課だったこの作業ともそろそろお別れだな」と、
僕は少々感傷に浸りながら考えていた。
それは,僕だって日々朝顔達の成長を見守り続けてきたからだろう。
何か「親」のような心境に近いものだったのかもしれない。
「んっ」
海の方へ目を遣ろうとした僕の視界を,初めての色が掠めた。
白い朝顔だった。
どこかから種が運ばれてきていたのだろうか。
二輪だけ寄り添うように咲いていたのだ。
「これは君にも見せてあげないと」と思い部屋に戻ったのだが,君は完全に熟睡しているようで、無理に
起こすのも躊躇われ「明日見せてあげるね」と,君の寝顔に呟いていた。
そして「これからちょっと忙しくなるんだ」と。
君の髪を柔らかく手で梳きながら,目の前のウインドチャイムに息を吹きかける。
夏の陽射しを集めて散らしたようなキラキラした音が,束の間二人に降りかかる。
揺れるウインドチャイムの向こうに,二輪の純白の朝顔が見え隠れする。
「あれを見たら君は何て言うだろう」
君が浮かべるであろうとびっきりの笑顔を想像すると,自然に微笑みが零れてきた。
「このまま時間が止まってしまったら」
そんな思いがフイに心をよぎる。
この世界には君と僕しかいなくて。
いや,それでは意味がない。
日常の暮らしがあるからこそ,二人で生きる事の大切さ、歩む事の素晴らしさを体感できるのだ。
それこそ,喜びも悲しみも。
一緒に生きるとはきっとそういう事なのだ。
「・・・・・」
突然海風を感じたくなり,再び庭へ降りる。
白い朝顔は,変わらず寄り添うように揺れている。
僕はそれを自分達の姿に置き換えていた。
明日さえもまだ間々ならない自分達に置き換えていた。
遠く,空を漂うトンビが見えた。
雲は,もうすっかり秋仕様に衣替えを終わったようだ。
僕は両手を高く突き上げて,大きく深呼吸をした。
するとたちまち鼻腔に潮の匂いが溢れてきた。
「今日も暑くなりそうだ」
「よしっ!」と自分自身に気合を入れながら,朝顔達に手を振りながら、踵を返す。
僕の背を,秋へ移ろうとしている夏の陽射しが、優しく撫でていた・・・

次の日,あの二輪の白い朝顔は咲かなかった。
その次の日も,そのまた次の日も、咲かなかったのだ・・・

そして,その日は突然やってきた。

僕は二日ばかり茅ヶ崎の自宅に戻っていた。
置いてあった小説の類を移すという目的もあったが,仕事でビデオチェックをしなければならなかった
のと、ゲ−ムの仕事を初めてやる事になり、膨大な枚数の台本を同じくチェックしなければならなかった
からだ。
君も何か創作活動で目一杯のところがあったので,僕は自宅で備える事にしたのだ。
うちは,母子家庭だった。
幼い頃に父親は交通事故で亡くなっており,母は一人で僕を育てあげてくれたのだ。
今回,彼女と同棲生活を送りたいんだと話した時も「お前のやりたいようになさい、ただし、その方を
大事にするんですよ」と言い、決して反対はしなかった。
母はいつも僕の事を第一に考え,自由に振るまわらせてくれていた。
「一度彼女を連れていらっしゃい」と言われ続けているのだが,何か気恥ずかしくてまだ会わせていな
いのだ。
電話では何度か話しているのだが。
風の強かったその晩,僕は台本のチェックに追われていた。
「フゥ〜ッ」
目頭を押さえながら,首を軽く回し、大きな伸びをする。
「ちょっと休憩するかぁ」
ダイニングに降り,紅茶を淹れる。
牛乳をいつもより多めに,そして珍しく砂糖をいれた。
どうも頭が疲れているように感じたからだ。
熱いミルクティが身体の隅々に行き渡り,何か生き返った気がしたものだ。
「そっちはうまくいってる?」
僕は写真立ての中で微笑む君に話しかけていた。
「俺はもう5時間位台本と首っ引きなんだけど,まだ200ぺ−ジ位あるんだぜ、信じられるかい」
多分このままだと朝を迎える事になるだろう。
「こんな日は,波の音が近く聞こえるんだろうなぁ」
自宅は内陸にあるので,海を感じる事は出来ないのだ。
ほんの二日しか離れていないのに,無性に波の音が恋しくなった。
というより,本当は君が恋しくなったのだ。
「明日帰ったら,真っ先に君を抱きしめよう」
そう心に誓った僕は,また黙々と台本チェックの世界へと没頭していった。
朝の食卓で母が言った。
「ねぇ,貴方の担当する新番組、明後日からだったわよね、その時に彼女を連れていらっしゃい、一緒に
食事をしながら番組を見ましょう」
「えっ,それは」と思ったのだが、いつもより真剣な母の口調に気おされて反論出来ず「そうだね連れて
くるよ」と答えていた。
満足そうに頷く母を見て「これも親孝行に入るんだろうか」と考えていた。
「君と母は気が合いそうだ,となると僕はどんどん部が悪くなるな」
味噌汁を啜りながら,僕はそんな事を考えていたのだ。
でも三人で食卓を囲むのは悪くない気がした。
特に母は喜ぶだろう。
自分の事になると感情を抑える人だが,母が、彼女と会って食事を摂るのを楽しみに待っているのだと
いう事は、僕にも何故だかハッキリと分った。
「こんなに小さな人だったっけ,これからは俺が頑張って、たまには贅沢させてあげるからね」
お茶を淹れてくれている母に向かって,心で語りかけていた。
「じゃあ明後日,夕方には来られると思うから」
「ハイッ,彼女にもよろしくね」
もうすっかり秋色に染った空を見上げ,母に手を振る。
早足になっているのが自分でも分る。
一分,一秒でも早く君に会いたかった。
ホ−ムで上りの電車を待ちながら,ユ−ミンの歌を口ずさんでいた。
この歌を始めて聞いた時「えっ,相模線だ」と,嬉しくなったのを憶えている。
「あっ,電話するの忘れちゃったな、でも、まっいっか、すぐ会えるんだし」
車窓から臨む見事な富士に感動しながら,僕はそんな事を考えていた。
「乗換えがスム−ズだといいな」
君には話したい事が一杯あるんだ,話したい事が。
「こんな時,どこでもドアがあるとなぁ」
逸る気持ちを押さえ,僕は君の笑顔と、七里が浜の風景を憶い出だしていた。
いつもはそんな事は思わないのだが,今日はやけに距離が長く感じる。
茅ヶ崎から藤沢へ,そして江の電乗り場を目指す。
「あっ」
いつもの癖で「のりおりくん」を買っていた。
「今日は必要なかったよなぁ」
苦笑しながらホ−ムに立つ。
入線してきた最新の車両に目を移しながら「しょうがないか」と一人ごちていた。
何故なら,僕には電車をスル−する余裕など全くなかったのだから。
先頭車両の一番前に陣取り,暫し目を閉じる。
もう頭の中には君のあのとびっきりの笑顔しか思い浮かばなかった・・・

七里が浜の駅を降りたところで,あの酒屋のご主人とすれ違った。
「あれ,二人でどっかに行ってたんじゃないの?」
「えっ,いえ、僕一人ですけど」
「そう,ふ〜ん・・・じゃあ又な!」
不振に思った僕は聞き返そうかと思ったのだが,ご主人はさっさと少し先の店へと入ってしまった。
「どういう意味だ?」
しかし,君に久しぶりに会える気持ちが勝っていたのだろう,僕はすぐに家を目指した。
「元気にしてた?」
僕は思わず家にも声を掛ける。
その瞬間「おかしい」と僕の五感が囁いていた。
玄関前に立ち,ノブに手を掛ける。
閉まっていた。
「まだ寝てるのかなぁ」
そんな事を考えながら,鞄から合鍵を取り出す。
一つ大きく深呼吸をした後,ドアを勢い良く引きあけ「ただいま!!」と叫んでいた。

「・・・・・」

僕は暫く,口を「ま!!」の形に開けたままそこに佇んでいた。
何もなかった。
そこには,僕の知らない空間が広がっているようだった。
目の前の光景が目には映っているのだが,脳には理解が出来ないのだ。
「んっ」
そこに何かの音が割り込んできた。
「この音は・・・」
ウインド・チャイムが玄関からの風を受け,あの涼やかな音色を響かせていた。
しかし,何かゆったりしている。
君が僕に造ってくれた「ペンギン」だ。
何かの拍子で間抜けな音を出すそれが,何もない空間に音を溢れさせていた。
僕は少し自分を取り戻すと,室内に足を踏み入れる。
家とは人が住んでいないとこんなものなのか。
まるでもう長い間使われていないようだ。
試しに蛇口を捻ってみる。
水は止められていた。
窓もしっかりと閉められていた。
篭った空気が息苦しく,僕は全ての窓を開け放っていた。
海風と一緒に,あのウインド・チャイム達の音色が一瞬聞こえたような気がした。
「ちょっと待っててね,もう少しで出来るから」
「えっ」
振り向いた先に,包丁を使う君の姿が見え隠れしていた。
やけにぼやけて見えると思っていたら,僕の瞳にはいつのまにか薄い膜が掛かっていた。
その揺らぐスクリ−ンに,記憶の中の君が投影されていたのだ。
どれだけ時が流れただろう。
「あのぉ,申し訳ありませんが」
と言う言葉で僕は現実に引き戻された。
玄関に見慣れぬおばあさんが立っていた。
「ここの大家なんですが,午後からもうクリ−ニングが入りますんで」
「あっ,スイマセン」
僕は急いで踵を返そうとして立ち止まった。
「お前は連れて帰らなくちゃな」
ペンギンを天井から外す。
だってこいつは,きっと君が僕に残していってくれたものなのだから。
外に出て気がついた。
屋根に鎮座していたシ−サ−も,ドアノブの流木も、もうここには住んでいなかったのだ。
僕は大家さんにことわりを入れて庭に周った。
最近風の強い日が続いていたのだが,海に近いここはそれが尚更顕著なようだ。
あれほど望んでいた海風なのに,今日はやけに痛みを感じる。
心に直接吹き込んでくるようなのだ。
そして意を決した僕は大家さんに一礼すると,七里が浜の駅へ走り始めていた。
自分の思考を整理出来ないまま,走り始めていた。
ただ「君に会わないと」と強く思っていたのだ・・・

弁天橋を渡り,土産物屋の並ぶ細い道を、そして右の道を休みなく駆け上がり「あぶら屋」を目指した。
滝のように滴り落ちる汗にも,荒い呼吸にも構わず、店の人に彼女の事を尋ねていた。
一昨日突然やめさせて下さいと来て,そのまま急ぐように帰ってしまったという話だった。
「あっ,そう言えばアトリエに行くって行ってましたよ」
「北鎌でしたよね,場所教えていただけませんか」
そういえば,僕は一度も彼女が通うアトリエを訪ねた事がなかったのだ。
「先生って,ホントあたしがいないと何も出来ない人で・・・」
「御免,今晩は先生に夕御飯つくってあげないといけないから、少し遅くなるけど・・・」
そんな言葉が脳裏を駆け巡っていた。
「アトリエの隣には大きな銀杏の木があってね・・・」
店の人にお礼を述べ,僕はまた走り始めた。
「ここからの景色,あたしは好きだな・・・」
「えっ」
荒い呼吸に紛れて君の声が聞こえた気がして,僕は立ち止まった。
「もう少し下のみどり橋からの景色も好きだけど,一番はやっぱりここかなぁ・・・」
「海と空がとっても広く見えて・・・」
海には細かく白波が立っている。
「なんで・・・」
僕は込み上げてきそうになるものを無理やり押さえ込みながら再び下り坂を走り始めた。
青銅の山門を抜け,弁天橋へ。
潮位が随分上がっている。
空が随分青く見えるなと思ったら,仰向けに倒れていた。
心臓が喉から今にも飛び出しそうだ。
「クッソ〜ッ!」
全身に力を込め起き上がる。
ゼェゼェ音をたてていた息遣いが,ヒュ−ヒュ−とした息遣いに変わっていた。
心の中で雄叫びを上げながら,また走り出す。
一歩一歩がやけに重く感じる。
周りの景色が色を落とし,前の道だけしか見えなくなる。
混濁する思考の中「北鎌」という文字だけがハッキリと浮かび上がっている。
もう何も考えられなかった。
ただ「本能」が僕の身体を運んでいた。

江の電に飛び乗る。
「お前今日は大活躍だな」
くしゃくしゃになってしまった「のりおりくん」に僕は語り掛けていた。
時々意識が飛びそうになるのを,僕は奥歯を噛み締める事で耐えていた。
肩を誰かに揺り動かされる。
「お客さん,お客さん!」
薄目を開けると,乗務員らしき人が。
「終点の鎌倉ですので」
「あっ,スイマセン、すぐ降りますから」
のろのろと起き出した僕は,改札を抜け、横須賀線のホ−ムへ出た。
ちょうど青と白の車両が入線してくるところだった。

「下りのホ−ムからはすぐ見えるのよ・・・」
「ここか」
僕は君の通うアトリエの前に立っていた。
息遣いはようやく平常に戻りつつあった。
真鍮のドアノブを掴む。
「んっ?」
ビクともしない。
ドアを叩きながら「スイマセ〜ン,スイマセ〜ン」と言う僕に「そちらの方はもういらっしゃいませんよ」
と,隣の家の二階のベランダから声を掛けられた。
「昨日,何か突然ここを閉める事になったとかで・・・」
「そういえば若いお弟子さんも一緒でしたね」
「あの先生,ちょっと変わった人でしたけど、別居中だとか仰ってましたかしら・・・」
「あの,どちらに行かれるかとか言ってませんでしたか?」
「さぁ・・・あっでも、何か遠くだとか仰ってらしたような」
「・・・・・」
その時,君の様々な表情が物凄い勢いでフラッシュバックしていった。
初めて憂いの表情を浮かべたあの時。
君のダイバ−ズウォッチに刻まれていたイニシャルの事を尋ねた時「これはあたしの尊敬する芸術家
のを自分の代わりに入れただけなの、変だよね」と舌を出しながら笑っていたあの時。
今ならば,今ならば良く分かる、それが表札の名前の人だという事が。
眠りながら涙を流していた夜,君が見ていたのは僕の夢などではなく。
僕は,僕は、何故あの時、おかしいと微塵も思わなかったのか。
そんな場面はいたるところに沢山顔を覗かせていたのに。
結局僕は自分の事しか頭になかったのか。
「同棲までしていたのに」
「そんな事があるのか,あっていい筈がないだろう」
下を向いて震えている僕がきっと気味悪かったに違いない。
隣の人はベランダの向こうに姿を消していた。
「これで終わりなのか」
気付くと,雄叫びが唇を割って出ていた。
自分の声に驚いた僕はようやく正気を取り戻していた。
そして足早に「北鎌」の駅を目指していた。
僕はまだまだ諦めていなかった。
だってこのまま終わるなんて,このまま。
ホ−ムを渡る風に,君の声が届けられた気がした。
「あたし,秋が一番好きだな」
左腕に唐突に君の重さが蘇ってきた。
腕を思わず擦(さす)りながら,君の声を空に追う。
ホ−ムに滑り込んできた横須賀線のブル−&ホワイトが,僕の目から元アトリエを隠す。
いつのまにか陽が傾いた時間の中,僕は電車に乗るのも忘れ、その場に佇んでいた。
それが巻き起こす風を感じながら,ただ佇んでいた・・・

それから一週間程が経ったある日。
僕の残りの持ち物達は,君が姿を消した翌日、綺麗にダンボ−ル箱に収められて自宅に送り届けられて
きた。
僕は仕事の合間も,君の僅かに残した痕跡を、祈るような気持ちで辿っていたのだが、消息は以前
霧の彼方だった。
人間とはげんきんなもので,身を引き裂かれそうな状況であっても、眠くなれば寝るし、お腹が空けば
食べ、仕事にも休む事なく通っていた。
天気予報が、発生した台風が、関東地方にも、もしかしたら上陸するかもしれないと警告を発していた
その日。
僕は相模線の最終に何とか間に合い,遠い雷鳴に背中を押されるように、家路を急いでいた。
風は少し強さを増していたのだが,幸い雨はまだ落ちてきていなかった。
「フゥ〜間に合った」
扉を開けようとして憶い出だした。
「そっかぁ,お袋さん、今日・明日と箱根だっけ」
母は町内会のクジ引きが当たり,親しい友達と温泉旅行に出掛けていたのだ。
ダイニングに入り灯りを点けると,夜食の用意がしてあった。
「忙しいだろうからいいって言ったのに」
うがいをして手を洗った後,着替えの為、一度二階の自室に上がる。
スウェットに手早く着替え階段を下りる。
夕刊を取りに外へ出た。
今すぐにでも降り出しそうな気配が空気中に濃厚に漂っている。
郵便受けを開けた時,何かが足元に落ちた。
「なんだ?」
拾い上げその表を見た途端,急いで家に駆け上がっていた。
ペ−パ−ナイフを使うのももどかしく,乱暴に破り中身を出す。
そこには,懐かしい君の文字が躍っていた。
一度深呼吸した僕は,椅子にキチンと腰掛け、一字一句を頭に刻み込むように、読み始めた。

「前略、お元気にお過ごしの事と思います。
なんて,あー駄目だ、やっぱり普段通り話させてもらうね。
あなたはきっともの凄く怒ってるでしょうね。
もしかしたらこの手紙も読まずに破り捨ててるかもしれませんね。
って当たり前ですよね,こんな事されたらあたしだってきっと怒りまくってるでしょうから。
でも,どうしてこうなってしまっのかだけは分ってもらいたくてこうして筆を執りました。
あなたも多分もう気付いていると思うんだけど,あたしは今、先生と一緒にいます。
日本ではないどこかの外国に。
先生とはお付き合いを始めて5年になります。
きっかけは,あたしの大学の臨時講師としてこられた時で。
ただ,やはりこんなお付き合い(不倫ね)はしていてはいけないと、あたしも思い始めていました。
そんな時です,あなたと出会ったのは。
こんな事をして今更信じてはもらえないかもしれないけど、あたし、あなたの事が大好きでした。
ううん,愛していました。
あたしはこの人と生きていくんだって,本当に思ってたんだから。
でも,あの人、先生が奥さんから突然離婚を切り出されて。
どうやら随分前からあたし達の事は怪しんでいたみたいで,密かに探偵を雇ってたみたいなの。
それで,離婚の条件が、慰謝料を払うか、払えなければ3日以内に自分の前から姿を消すという事
だったの。
あの人にそんなお金がある筈もなくて。
あたし,あの人の姿を見てて「一人にはしておけない」って思ったの。
あなたは一人でも生きていけるかもしれないけど,あの人は駄目なの。
誰かに支えてもらわないと歩いていけないのよ。
あなたはきっと、君じゃなくてもいいじゃないかって言うだろうけど、あの人はあたしじゃなきゃ駄目なの。
これは本当に虫のいい我侭な話よね。
あたしは結果的には,あなたの気持ちをただ弄んだようなものだから。
でも,でもこれだけは信じて欲しいの、今でもあたしがあなたを愛しているっていう事を。
二人ともあたしにとってはかえがえのない人なのよ。
ねぇ,約束してくれない、あなたはこんな状況でも、きっとあたしの言う事を聞いてくれる人だと信じてい
るから。
あなたは出来る人よ,だからもっともっと自信を持って。
あなたの声には,語りには、人の心を揺り動かす「何か」が含まれてるの。
これは凄い事だとあたしは思ってたんだから。
土にあれだけ拘ってたのも,ホントはあなたの影響なんだから。
でも何か悔しくて本当の事は言えずじまいだったけど(ってここで白状しちゃったけどね)
だから,だから、諦めないで頑張って!
どこへ行っても,あなたの事を応援してるから。
空を見上げて,あなたにエ−ルを送るから。
だって空は繋がってるでしょう,どこにいたって空を見上げれば、あなたとあたしは繋がる事が出来る
でしょう。
だから,あなたも空を見上げて欲しいの、時々でもいいから。
あなたと出会えた事は必然だったのよ,偶然なんかじゃなくて。
あたし、あなたと出会えて本当に幸せだった。
「ありがとう!」
約束よ,空を見上げてね。
辛い事があった時や,悲しい時には特に。
あたしの飛びっきりのスマイルを送るから,大丈夫、あなたの気持ちをあたし、絶対感じる事が出来ると
思うから。
短かったけど,一生分の夏をあなたにもらった気がするの。
あなたの優しさ,温もり、匂いまで、全部全部忘れないから、死ぬまで絶対忘れないから。
あなたはあたしの中でず〜っと生きています。
ずっと,ず〜っと。
本当に最後まで我侭なあたしでゴメンネ。
あたしもこれから精一杯生きます!
どっちが一生懸命生きられるか競争だね。
じゃあ,健康にはくれぐれも気をつけて。
あっ,うがいは毎日ちゃんとするんだぞ、それから手もしっかり洗うように。
それから,いつもタオルケットとか夜中に剥いじゃってたから、これからは自分で気をつけるんだぞ。
それから,野菜もちゃんと食べるんだぞ、肉ばっかりじゃなく、魚も時々でいいから食べるんだぞ。
それから,それから・・・それからね・・・それから・・・
早くいい人を見つけるんだぞ!

遠く離れた異国の空の下で,あなたの活躍を祈っています。 草々」

僕はその手紙を丁寧に折りたたんで,封筒に戻した。
今気付いたが,便箋も封筒も、君の大好きな水色だった。
「水色は〜涙色〜・・・」
君に教えてもらった古い歌謡曲が口をついて出ていた。
「海・・・」
言葉と一緒に何かが込み上げてきそうになる。
次の瞬間,僕は玄関を飛び出していた。
細かい雨が顔に当たる。
「海へ・・・」
自転車に飛び乗り,力強くペダルを漕ぎ出す。
強さを増してきた風が,方々で唸り声をあげはじめる。
僕は唇を噛み締め,一点だけを見つめていた。
「なんで,なんで、俺は、俺は・・・」
赤信号を突っ切った。
クラクションの渦の中,誰かが怒鳴っている姿が視界を掠める。
「誰が,一人で、大丈夫・・・だって・・・」
消防署の前を,信じられないようなアゲインストの中、スタンディングの姿勢をとり、更に加速していく。
文化会館が市役所が後ろに飛んでいき,そのままの勢いで国道一号線を突っ切る。
「君が,いるから、君がいれば・・・っ・・て」
大踏み切り、通称・あかずの踏み切りが見えた瞬間,警報が鳴り出す。
「君とこれから・・・」
遮断機が作動し始めた時踏切内に進入した僕は,それが降り切る寸前に向こう側へすり抜けていた。
左・右・右と曲がり,いつものコ−スに乗る。
図書館が,教会が、高砂(たかさご)緑地が、すぐに後方に運ばれていく。
「君の事を,君だけの事を・・・」
鉄砲通りを越え,君に一度見せたいと思っていた家々の前を、幼稚園の前を、市営コ−トの前を、
市営球場の前を、フジボウルの前を、渾身の力を込め、ただ駆け抜けていく。
心臓が今にも口から飛び出しそうだ。
足は鉛のようなのに,止まろうとはしなかった。
海岸通りの向こうは黒で塗り込められている。
流石に車は走っていない。
西湘バイパスは多分もう通行止めになっているだろう。
そんな事をまだ冷静に考えている自分に苦笑する。
海岸通りから海への小道を入る。
海が目に飛び込んで来た瞬間,もの凄い突風に自転車ごと倒されていた。
ヨロヨロと立ち上がった時,今迄抑えられていた感情が一気に迸るのを感じた。
魂の底から叫んでいた。
言葉は出ている筈なのだが,自分でさえ何と言っているのか分らなかった。
「・・・カ・・ヤ・・・ゥ・・・!」
「・・ォー・・・オ・・・!」
「・・・・・!・・・・・!・・・・・・!・・・」
涙は,雨と風と混ざり合い、僕の心に土砂降りとなって降り続けていた。
どの位そうしていただろう。
ふいに辺りが静かになった。
その間隙を縫うように,僕の言葉が、聞く者の心を切り裂くような、深い悲しみを染み込ませた響きと
ともに海を渡っていった。
「俺は,絶対、空なんか見ないからなぁ!!」
天空に声が吸い込まれると同時に,先程よりも凄まじさを増した、雨と風が僕を包み込んだ。
僕は力の限り叫び続けた。
両の拳(こぶし)を突き上げて叫び続けた。
「いっそこのまま台風に飲まれてしまおうか」
そんな事を考えながら,叫んでいた。
言葉にならない言葉は,次から次へと溢れ出していった。
やがてこの言葉達に埋もれてしまえたら。
暗い海に向かい,僕は叫び続けていた。

それは,ちょうど強力な台風が関東地方を直撃する事になる、未明の事だった・・・

〜晩夏の章〜

・・・「そういえば,もう沖縄は行かれたんですか?」
「うん,先週行って来たよ」
「えっ,マジっすかぁ、いいなぁ俺も一度でいいから行ってみたいっすよぉ」
日曜・深夜。
私は若いスタッフと軽口を叩き合っていた。
二本目のブイ(VTR映像)のあがりが遅れていて,ラウンジに珈琲を飲みに来たのだ。
「でも,いいんでしょうねぇ、沖縄って・・・」
「こらっ!こんなところで油売ってるな!!」
「げっ!ス,スンマセ〜ンッ!!」
「あっ,今度、沖縄の話ゆっくり聞かせてくださいねぇ。」
「お前、クライアント待たせてどうする!」
「いてっ!ハッハイ〜ッ・・・」
「たくっ,あいつは調子が良すぎてホント困りますよ」
「でも,俺は好きだよ。ああ見えて仕事はキチンとこなすしね」
「それより申し訳ありません,急に二本録りになってしまって」
「いいって,スケジュ−ルの都合だろ、お互い様だって」
「ありがとうございます。でも今回の台風にはホント参りましたよ」
「そうだね,俺も先週焦ったけど、宮古島は大丈夫だったんだよな、本島は悲惨だったらしいけど」
「今年は宮古に行かれたんですね」
「前からあそこには行ってみたかったからね」
「俺もこんなにスケジュ−ルがぐちゃぐちゃにならなきゃ石垣に行きたかったんですけど」
「石垣もいいよね,緑が濃くて、海が・・・」

あれからもう何度夏を迎えたのだろう

私は,40半ばに差しかかろうとしていた。
あの嵐の晩から,私は君の事を憎む事で忘れようとしていた。
そしてそのエネルギ−を全て仕事に注ぎ込んでいたのだ。
君を想い出させるものは,私の周りから一切排除した。
しかし,どうしても排除出来ないものがあった。
それは「思い出」だった。
君との「思い出」は,忘れようとすればすれするほど鮮明に蘇り、まるでその場面を、全く同じ登場人物
で再現したかのような錯覚に襲われたのだ。
そして,毎晩・毎晩(こんな事を書くと「女々しい奴」だと言われそうだが)、眠りながら涙を流していた。
いつのまにか涙が溢れているのだ。
日々の暮らしの中で,車窓の景色を見つめているだけでも、信号待ちをしているだけでも、ただ何も考え
ないでいるだけでも、食事をしているだけでも、映画をみているだけでも、何かによって君を憶いだした
時、決まって胸が息苦しい程切なくなり、どうしようもなくなってしまったのだ。
私には涙が零れない様に我慢するしか方法はなかったのだ。
そんな暮らしを私は何年も続けていた。
私の時間は,あの嵐の晩で、完全に歩みを止めてしまっていたようだ。
私だけを残して,周りの時間だけが容赦なく流れていった。
しかし皮肉にも仕事は順調に増えていき,あの私の初レギュラ−番組は、今ではその局の一番人気
の長寿番組となっており、先日、局から「特別賞」なるものをいただいたばかりだ。
今宵の録りはその番組であった。
しかし,そんな止まったままの自分の時が,ぎこちなくだが、ゆるやかにまた動き始めたのだ。
ある事をキッカケに。
その件を語る前に触れておかなければならない事柄がある・・・

ここには絶対に行くものかと思っていたのだ,あの映像を見るまでは。
確かあれは,この旅番組10回目位の本番の時だ。
その時のレポ−タ−の行き先が,沖縄の「宮古島」だったのだ。
「なんだよ」
少し不機嫌な気持ちのままブ−スに入った私はディレクタ−の「テスト行きます!」の声にも,テンション
があがらぬままで答えていた。
やがて映像が流れ始める。
最初の30秒は空撮を交えた海中シ−ンで。
「・・・・・」
私は一瞬の内にトリップしていた。
大きなカルチャ−ショックを受けていた。
様々な「青」の乱舞にすっかり心を奪われていた私は,ディレクタ−のキュ−を見逃してしまっていた。
ビデオが止まる。
ト−クバックで「どうしました?」「いえっ,スイマセン、映像が余りにも綺麗だったんで、見惚れてしま
って」
「それは大成功だな,今回オ−プニングには大分、力(りき)入れましたから、カメラマンも喜びますよ」
再度,初めからテストが始まる。
コメントを読みながら,私は自分もレポ−タ−と共に歩いているような、そんな気持ちになっていた。
あの鮮やかな天然色達に自分も包まれているような感覚に襲われていた。
陽射しの強ささえ,確かに感じられた気がしたのだ。
本番終了後,私はディレクタ−に、時間の許す限りロケの模様を聞いていた。
なんとその後,カメラマンの方にも連絡を取って時間を作っていただき「沖縄」の「宮古島」の話を聞かせ
ていただいた。
私が食い入る様に話に聞き入り,質問も後から後からしたからだろう。
その方はこんなアドバイスを与えてくれた。
「沖縄に最初に行くのだったら宮古にはまだ行かず「久米島」から行った方がいいかもね」
「どうしてですか?」「うん,それはね、だって初めて行くんだったら、ホントにスッゴク感動して欲しいか
らね、あそこの、はての浜は行ったら驚くと思うから」「分りました、久米島ですね」「まぁ偉そうに言って
も、所詮自分の経験と嗜好でしか言えないんだけどね」「いえ,あのような、何と言ったらいいか凄い映
像を撮られる方なんですから、信じます」「そういってもらえると嬉しいね、それにもう一つ言わせて貰う
なら、俺が一番好きな島だからかな、八重山や宮古でもなくて・・・」
次の夏から,私の沖縄詣でが始まった。
その頃私はまだ駆け出しだったので,NGなど取るのは以ての外だったのだが、思い切ってマネ−
ジャ−に相談してみたのだ、何故行きたいのかをしっかりと伝え、駄目なら諦めようと思って。
マネ−ジャ−は「いいんじゃないか見聞を広める意味でも,そしてそういった知らない土地の空気や
雰囲気を肌で感じる事は、これからの君にとってマイナスにはならないと思うし絶対に。行ってこいよ、
なぁに仕事も天下の周り物さ、気にするな、社長には俺から言っておくから・・・」
あのマネ−ジャ−がいなかったら,私はきっと沖縄には行けていなかっただろう。
彼は今うちの事務所の「社長」となり,私とは公私共、良きパ−トナーシップで結ばれている・・・

あれ程忌み嫌っていた筈の沖縄が,私にとって、いつのまにか掛け替えのない場所となっていった。
しかし,今でも本当は一番その地を踏みしめたいと思っているのに、行けない島がある。
「竹富島」だ。
あの頃,君が一番行きたがっていた島で「一緒に行こうよ、俺も沖縄に君と行ってみたいよ」と何度も
何度も話し合っていたのがまるで昨日の事のように憶い出だされる。
石垣島までは行くのだが,私の足がそちらを向く事はなかった。
そこは君と一緒でないと渡ってはいけない島として,私の中に強く刻み付けられていたからだ。
とにかく私は,それから夏の声を空気の中に感じ取ると、一気に五感全てが沖縄モ−ドに突入して
いった。
事務所にとっても私の沖縄行きは,毎夏の定例行事のようになり、スタッフは私の琉球土産を心待ち
にするようになっていった。
何しろ私は,事務所へのお土産にも毎回趣向を凝らしていたのだから。
最初は「ブル−シ−ル・アイス」だったが,何回目からかは、その年話題になっていたりする沖縄の
ものを私がスタッフ一人ずつに買って帰るようになったのだ。
やがてそれは私の密かな楽しみとなり,それを受け取って喜ぶスタッフの顔を見るのが、とても嬉しく
なっていったのだ。
中には,有名な沖縄本島にある鍾乳洞に泡盛を寝かせて「古酒(ク−ス−)」にして、何年かしたら取り
にいくという段取りでお願いしたいと頼んできたスタッフもいる。
向こうにはそれこそ膨大な泡盛がその鍾乳洞に眠っていて,何かのお祝いの時に取りに来るようにして
いる方というのは案外多いという話だった。
満天の星の下(もと),見事な天の川を見上げながら飲むオリオンビ−ルや泡盛は,また格別なもの
だった。
そして,私は沖縄の持つ独特な空気感・雰囲気にすっかり魅了されてしまっていたのだった。

それと,一つだけ、形ある物で残っているものがある。
あのウインド・チャイムだ。
今年も夏の風を感じ始めた日から,我が家の玄関で、ちょっと間の抜けたような、ゆったりとした音を響
かせている。
何度も何度も捨てようとは思ったのだ。
思ったのだが,ペンギンを見る度に蘇ってきたのだ、君の言葉が。
「貴方ってペンギンに似てるわよ」
そういって微笑んだ君の姿が。
このペンギンが私の悲しみを一番知っているのかもしれない。
だって,私の心の汗を、沢山その身に受けていたのだから。
それに,私には帰る家がなかった。
まだ私の魂は彷徨ったままだったのだ。
「このまま人生を終えるのか」
そんな事を40代の声を聞いてから本気で考えるようになっていた。
今生きているのは自分ではなく,ドッペルゲンガ−ではないのかと。
沈殿する思考の中季節は巡り、物凄い速さで私を押し流していった。
「私」と「僕」の距離は,毎年・毎年、確実に開いていき「僕」という存在は、存在した事自体が夢だった
のではないかと思われる程、遠いものになろうとしていた。
そう,後は消えてしまうのを待つだけの・・・

そんな時だった。
あれはそう,去年の暮れ。
君からエア−メ−ルと小包が突然届いたのは。

ペ−パ−ナイフで丁寧に開封する。
目に飛び込んできたのは,君と二人の子供が写った一葉だった。
君の笑顔は,あの頃と変わらず、私にはとても眩しかった。
水色の便箋には,君の特徴ある真っ直ぐで少し丸みを帯びた文字が、遠慮がちに躍っていた。

「お元気ですか!?
私は二児の母になりました。
もうすっかりおばちゃんよね。(笑)
日本の友人に貴方の事は時々聞いています。
活躍されているようで,自分の事のように喜んでいます。
それに実はあたし,貴方のHPも時々覗かせてもらってるんですよ。
凄いじゃないファンの方が一杯いて,もう、若い子に囲まれてデレ〜ッとしている貴方の顔が浮かびま
す。って、冗談だからね、今真面目にとったでしょう!まったくもう。
貴方のNAしている番組もお友達が時々送ってくれるんだから。
あたしは,そんな凄い知り合いを持って、鼻高々です。フフッ。
ねぇ,約束通り、空は時々見上げてくれてる。
あたしはちゃんと見上げて,色んな事を貴方に報告したり、エ−ルを送ったりしてたんだから。
きっと貴方もそうよね。
こちらにきてからは,ずっと色々忙しくて創作活動を休止してたんだけど、去年辺りから再会して、よう
やく形ある物が仕上がるようになりました。
で,約束通り、最初に焼き上がったこの湯呑みを貴方に贈ります。
御免ね,シ−サ−じゃなくて。
何で変わったのかはまた後程と言う事で。
ようやくこちらでも,いい感じの土が出来たんだ。
それから,あたしにとって貴方と過ごした日々は、宝物のようなとても大切な思い出となっています。
勿論貴方はあたしと違ってそんな風には思えないかもしれないけど,でも、でも、お願いだから、あたし
との事はいい思い出にして欲しいの。
それ以上でもそれ以下でもなく。
だって,きっと貴方の事だから、未だに引き摺ってるんじゃないかと心配なんです。
うまく言えませんが「いい思い出」として捉えて下さい。
貴方はこんなところで足踏みしている人じゃない筈よ。
だから,だから、お願いします!絶対だよ。
そうだ,包みはもうほどきましたか?まだほどいていないようだったら、ちょっと湯呑みを見て欲しいんだ
けど・・・

包みの中から出てきた湯呑みは,丸みを帯びて、少しズングリとした形の、何とも形容し難い「青」を
纏っていた。
角度により光により,その「青」は千変万化するようだった。

・・・これが先程の答えです。
前から思ってたんだけど,貴方の声は色に例えると、あたしが断然感じていたのは「青」だったの。
それも昼間の「青」や,貴方と見た夜中のあの「青」だったの。
漢字では上手く伝えられないかもしれないけど,それだけじゃなくて、色々に変化する「青」だったの。
最近思ったんだけど,貴方の「青」は昔より深みを増しているわよ。
でもね,きっとどこまでも深みを増していっても、貴方の「青」は「青」のままなんだろうな。
暗くはならないんだろうなって。
ねぇ,あたし嬉しかったんだから、貴方の声が深く澄んでいってる事が分って。
もう分ったかもしれないけど,その湯呑みの「青」は、貴方の「青」のイメ−ジを自分なりに表現したも
のよ。
日々猫の目のように変化すると思うわ,気温の差によってもね。
結構苦労したんだから。
あっ,でも何が使われているかは企業秘密。
だからって湯呑みを壊したりしないでよね,そんな事したら事務所に苦情メ−ルを山のように送っちゃう
んだから!
「何で分るの?」なんて聞かないでね,あたしには分るんだから、だってその湯呑みはあたしの子供
みたいなもんでしょ。
ところで,ペンギン君は元気にしてる?

あぁ,玄関でいつも、ノホホンとした音色を響かせてるよ。

彼みたいな音色を響かせるウインド・チャイムは,あれ以降作れてないんだから、大事にしてあげてね。
それから,お酒の量が大分増えてるようだけど、ちゃんと体調管理はするのよ、もう若くないんだから。
暴飲暴食は慎むように。
貴方この間もそんな事をHPの掲示板に書いてたでしょう。
打ち上げ旅行が楽しかったのは分るけど,ほどほどにね。
もう!いないの,ちゃんと注意してくれる女性(ヒト)。
社長さんに言っちゃおうかな「早くいい女性(ヒト)を見つけてあげて下さいね」って。
ホントよ,いい加減に身を固めなさい。
あっ,でももしかしたら,もういるかもしれないし、大きなお世話か(笑)。

とにかく,貴方は貴方の信じた道を真っ直ぐに歩んでいって下さい。
あたしはいつでもこの広い大空のどこかから,あなたの事を見ていますから。
だからこれからも,時々でいいから空を見上げてね。
貴方に会いたいな。
今は無理だけど,何時かまた二人で、由比ガ浜の夕陽が見られたらいいね。
それまでお元気で。
あたしは本気ですよ,日本にも帰りたいと思ってるし。
じゃあ,これからも益々のご活躍を期待しています。
最後に。

もうっ!早くいい女性(ヒト)見つけて結婚しなさい!!

・・・いつまでも「青」いままの貴方でいて下さい・・・」

小さく溜息を一つつき,手紙を丁寧に折り畳んだ。
窓の外に目を遣る。
季節は,師走に入り、ここ数日、どんよりとした曇り空が続き、寒さが一段と厳しくなってきていた。
「そういえば,色んな場所が失くなったよ、パシフィック・ホテルに、鵠沼プ−ルガ−デンに、二見館に、
岩本楼・別館に、灯台はリニュ−アルされてあの青と白の巻貝じゃなくなったし、ヨ−グルト・ドリンクの
美味かったあの喫茶店も失くなったし、バ−ガ−キングも、はまやも場所を移転したし、それと浜昼顔も
もう見なくなったし・・・あつ、でも、あぶら屋は変わらないけど・・・」
君との想い出の場所が,君が思い出される場所が消えていく度に、私の胸は痛んだものだった。
「紅茶でも淹れるか」
と,席を立ち、今日はお気に入りのカップで飲もうとサイドボ−ドを開けたその時。
「・・・・・」
聞こえてきたのだ,体の中から。
始めはそれが何か分らなかった。
むっくり起き上がってきたようなその「音」は,懐かしさと共にほろ苦さを憶い出ださせた。
それは,止まってしまっていた「僕」の時だった。
「いい思い出として」
その言葉が私の中で反響している。
その日からだ「僕」が「私」を追いかけ始めたのは。
消え入りそうだった「僕」を助けてくれたのは,誰でもない「君」だったのだ・・・

「お待たせしました!今原稿をコピ−してますので、スタジオで待機していただけますか」
「うん,さて、やりますか」
「あっ,それから、新しいエンディング曲、いよいよ来週からですね、局内では評判いいですよ」
「俺の書いた詩,古くなかったかなぁ」
「全然そんな事ありませんでしたよ,あの詩だけでグッときた人間多いんですから」
「作曲家がいいからね」
「またまたご謙遜を,でも、曲も詩も凄く上手い具合にシンクロしてますよね、まるで計ったみたいに。今、
まず初めに流しますから聴いて下さいよ」
「そうだね,俺は完成形は初めて聴くから何かドキドキするけど」
「もうきっとビックリしますよ,ご自分の詩に惚れ直すと思うな」
「ありがとう」
「じゃあ行きましょう!」
「あっ,悪い鞄忘れた、先に行っててくれないか、すぐ追いかけるから」
「分りました!そうだ,スタジオ、Dスタに変更になりましたので!」
軽く手を振り,ラウンジ横にある控え室に向かう。
サイドポケットから出したのは,君のあの一葉だった。
いつも私のパスケ−スに忍ばせてあるのだ。
「母も君に会えるのを楽しみにしてるんだぜ,だから、ホントに訪ねてきてくれよ」
「それから,君との事を楽しい思い出にする為に、詩を書いたんだ。そしたらひょんな事からそれが今
やってる旅番組の新エンディング曲になっちまったんだ」
「来週のオン・エア−分から流され始めるんだけど,早く君にも聞いてもらいたいな・・・」
パスケ−スを丁寧にしまうと,ショルダ−バッグを提げ、スタジオに向かう。

「今日はここで朝を迎えそうだな」

「僕」の時間は急激に「私」の時間に追い付き,瞬く間に、新しい時を刻み始めていたのだ。
気がつくと,言葉が唇から零れ出ていた。
君との事を「いい思い出」とする為に紡がれた言葉達が。

「この曲を君に・・・」

降り積もる I LOVE YOU

私の中に降り積もった「 I LOVE YOU」は,今、熟成され、芳醇な香りを醸し出し始めている。
不思議な穏やかさに包まれ,私は次の一歩を踏み出していた。
そして,もう私の中の「時」が止まる事はないだろうと、何故か確信に近い思いを抱いていたのだ。

私はゆっくりとスタジオのドアを開ける。
まるでそこには,まだ見ぬ新しい世界が広がっているかのようだった。
「そう,ここからだ、ここから・・・」
そう心で呟きながら,原稿を受け取り、プロデュ−サ−やミキサ−と軽口を叩き合う。
やがて,ピアノソロが静かに流れ始め、ギタ−の音色がそれに優しく絡んでいく。
目は自然に閉じていた。

私の前にあの頃の君が佇んでいた。
とびっきりの笑顔を湛え,佇んでいた。

私は,涙の代わりに微笑みを浮かべていた。
「君との日々はキラキラとした宝物なんだ,何物にも換えがたい」
曲と共に,君と過ごしたあの暑かった夏が、走馬灯のように次々と脳裏に映し出される。
気がつくと,あの懐かしい君の家のダイニングに「私」が立っていた。
海風と,ウインド・チャイム達の涼しげな音色を身体一杯に浴び、立っていた。
左手は,しっかりと君の手を掴んで。
「一生懸命生きていかないとな」
そう語りかける私に頷いた君は,私の手を引いてゆっくりと歩き始める。
目の前には,どこまでも真っ直ぐ伸びる、白い道が・・・続いていた・・・

『降り積もる I LOVE YOU』

君の仕草、一つ一つが、僕の心、ざわめかせる。
君の笑顔、真っ直ぐな瞳、僕の全てで受け止めたい。

受話器から届く君の声を、いつまでも抱きしめてた。

誰よりも君が好きだ。
海に向かって叫んだ夜。
言葉に出来ないこの想い。
降り積もる、I LOVE YOU

真っ白な言葉、揺らめきながら、いつまでも舞っている。
無邪気な声、見つめる力、僕の全てで受け止めたい。

君と歩いた夏の夕暮れ、このまま、ずっとこのままで。

誰よりも君を愛す。
太陽に向かって叫んだ朝。
言葉にしたくないこの想い。
降り積もる、I LOVE YOU

誰よりも君が好きだ。
海に向かって叫んだ夜。
言葉に出来ないこの想い。
降り積もる、I LOVE YOU

降り積もる、I LOVE YOU



2004/9/22(水)15:09  「MIZUNO−TEI」にて
&9/24(金)20:30 改訂の果てアップ「自宅」にて


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